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『二人の子どもフランス漫遊記』(ふたりのこどもふらんすまんゆうき、仏語''France tour détour deux enfants''、「フランス 一回り 回り道 二人 子どもたち」の意)は、監督・脚本ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィルによる、1977年 - 1978年製作のフランスのテレビドキュメンタリー映画である。'France tour détour deux enfants''、「フランス 一回り 回り道 二人 子どもたち」の意)は、監督・脚本ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィルによる、1977年 - 1978年製作のフランスのテレビドキュメンタリー映画である。'、「フランス 一回り 回り道 二人 子どもたち」の意)は、監督・脚本ジャン=リュック・ゴダール、アンヌ=マリー・ミエヴィルによる、1977年 - 1978年製作のフランスのテレビドキュメンタリー映画である。 == 概要 == 1973年、住み慣れたパリからグルノーブルに移住したゴダールとミエヴィルは、映画会社「ソニマージュ」を設立、「ジガ・ヴェルトフ集団」時代に『万事快調』(1972年)を製作した若手プロデューサーのジャン=ピエール・ラッサムの資金調達のもと、『パート2』(1975年)、『ヒア & ゼア こことよそ』(1976年)と『うまくいってる?』(1978年)映画を製作した。『パート2』以外は、ゴダール=ミエヴィルの共同監督作品である。 ゴダール=ミエヴィルは、グルノーブルのソニマージュ時代に、上記のほかに、フランス国立視聴覚研究所(INA)との共同製作で、テレビ局「アンテーヌ2」向け、ベータカム撮影による2本のテレビ映画製作を行なった。第一作が『6x2』(1976年)で、初めての全編ベータカムによるビデオ撮影であった。本作はその第二弾で、やはり『6x2』のように「2本が対」になり、6セットのスタイルで構成された。この「2本が対」のスタイルは、10年後に始まる『ゴダールの映画史』(1988年 - 1998年)でもその後、踏襲されることとなる。 『''France tour détour deux enfants''』という原題を『二人の子どもフランス漫遊記』と訳すのはこなれ過ぎで、実際はぶつぶつと切られた単語の並びである。オープニングタイトルでは、 : FRANCE : TOUR :DÉTOUR : DEUX : ENFANTS という形で黒味画面の上に並んでいる。''détour''が唐突に挿入されているという形であり、この語は当時ゴダールの傾倒するアンリ・ベルクソンらの用いたフランス現代思想用語でもある。本作は、G・ブリュノの名作『''Le Tour de la France par deux enfants''(二人の子どもたちによるフランス一周)』(1877年、ISBN 2701100429)を緩く原作にしているのだが、''détour''を挿入することで、19世紀から現代へ脱構築することをゴダール=ミエヴィルは目論んだのだ。 撮影のウィリアム・リュプチャンスキーとドミニク・シャピュイは、ゴダール=ミエヴィルの前作『6x2』からの連投。フィリップ・ロニは基本的には演出畑の人間で、1990年代には短篇映画を演出したりテレビ映画の脚本を執筆している。ピエール・バンジェリはこのあとも、『ゴダールのリア王』(1987年)のスピンアウト作で、ウディ・アレンへのゴダールによる出演交渉を収録した、ゴダール監督の短篇ビデオ映画『ウディ・アレン会見』(1986年)のカメラマンをつとめている。 本作のあと、既述の『うまくいってる?』を撮り、1979年、ゴダール=ミエヴィルはグルノーブルをあとにし、スイス・レマン湖畔のヴォー州ロールへと移住、商業映画復帰第一作『勝手に逃げろ/人生』(1979年)にとりくむことになる。1973年から1979年までの6年間は、1967年8月の「商業映画からの決別宣言」から1972年10月の「ジガ・ヴェルトフ集団」解散までのいわゆる「ゴダールの政治の時代」とは区別され、「ゴダール=ミエヴィルの共同監督時代」であり、「ビデオ映画の時代」であり、なによりも「ソニマージュ(音響と映像の対等な融合)の時代」なのである。もちろんグルノーブルでつちかったことは、その後、『ゴダールの映画史』を頂点とするビデオ映画のかずかずの作品に結実していく。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二人の子どもフランス漫遊記」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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