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広沢 虎造(ひろさわ とらぞう、1899年(明治32年)5月18日 - 1964年(昭和39年)12月29日)は、昭和時代の浪曲師。東京府東京市芝区白金(現・東京都港区白金)出身。本名・山田信一。旧姓は金田。 == 来歴 == 少年時代から浪花節を好み、腕自慢の素人として天狗連で「東川春燕」の名で人気を取っていた。安立電気(現在のアンリツ)に就職していたが、それを辞め、地元の初代木村重松や東家小楽燕に弟子入りを志願する。が素質無しと容れられず、19歳の時に冨士月子の手引きで上方の浪曲師・2代目広沢虎吉に弟子入りする。広沢天勝、後に天華と名乗る。23歳で2代目広沢虎造を襲名、徴兵検査で麻布第三連隊に入営したのを機会に帰京。師匠譲りの関西節から、中京節の鼈甲斎虎丸や関東節の木村重松らの節回しを独自に取り入れた「虎造節」に節を作り変え、戦前から戦後にかけて一世を風靡した。虎造を一躍有名にしたのは、自身も巻き込まれた交通事故である。1931年(昭和6年)、世田谷碑文谷の電車踏切で、寄席掛け持ちのため一行が移動中のタクシーが電車と正面衝突、運転手と虎造の相方である三味線の曲師とマネージャーが即死、虎造も瀕死の重傷を負うものの、命は助かった。この事故を新聞各社が大々的に報道したことをきっかけとする〔NHK録音集 浪曲傑作選1 中川明徳の解説より〕。 持ちネタは、国定忠治、雷電爲右エ門、祐天吉松、寛永三馬術など多岐に渡るが、中でも人気を博したのが、講談師・3代目神田伯山の十八番を、追い掛け回して習得した『清水次郎長伝』であった〔。とりわけ森の石松を題材にした『石松三十石船』は人気が高く、「寿司を食いねえ」「馬鹿は死ななきゃなおらない」などのフレーズは、ラジオ放送の普及も相まって、国民的な流行語となった。虎造自身の声は小音で、マイクが無い時代に大きな会場だと後ろから「聞こえん!もっと大きな声を出せ!」とヤジが飛ぶほどであったが、ラジオやレコードの登場に助けられたのである〔。 また戦前は映画にも積極的に出演し、劇中でしばしば浪花節を演じていた。映画出演に関して吉本興業のマネジメントを受けるだけでなく、浅草花月など当時吉本が東京に持っていた多くの劇場にも出演、吉本が中国大陸に派遣した軍隊慰問団・わらわし隊にも参加するなど、半ば吉本の専属状態となっていた。当時の出演映画には、出演者として「廣澤虎造(吉本興業提供)」とクレジットされているものもある(『エノケン・虎造の春風千里』など)。 戦後にも全盛は続き、浪曲の枠を超えた人気者の虎造は、民放の登場により、ラジオ浪曲ブームのけん引役として、連続読み番組(ラジオ東京の俗称「虎造アワー」)を長年持つことになる。当時の銭湯では虎造の「〽旅行けば」と節まねをしてうなる声が頻繁に聞かれたというエピソードが、昭和史の一面として残されている〔。 1959年(昭和34年)に脳溢血で倒れ、言語障害を発症。リハビリに取り組むも回復せず、1963年(昭和38年)の引退興行をもって浪曲界から身を引き、翌1964年(昭和39年)死去した。。戒名は「松寿院俉道日信居士」。 虎造の死後、浪曲界には虎造に続く図抜けた大スターが生まれず、以降浪曲界は、現在まで続く長い冬の時代を迎えることになる。だが虎造本人に関しては近年、『清水次郎長伝』をリアルタイムで聞いていた世代を中心に再評価の気運が高まっている。 妻は曲師の広沢美家好。次男の山田二郎は、NHK佐賀放送局、ラジオ東京・TBSの元アナウンサーである。 また、天津羽衣を世に出したのは虎造であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「広沢虎造 (2代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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