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両兵衛(りょうべえ)は、豊臣秀吉に仕えた2人の軍師・竹中重治(半兵衛)と黒田孝高(官兵衛)を指した名称。二兵衛(にへえ)とも呼ばれる。しかし、この2人が同時に秀吉に仕えた時期は播磨攻めの短い期間でしかなかったこともあったため、後世になって呼ばれた呼称といわれている。 竹中重治は美濃出身で、近江に地縁的なつながりをもつ人物であったことから秀吉の対浅井氏との戦いで活躍した。黒田孝高は播磨出身で、地元の有力豪族小寺氏の縁者でもあり、秀吉の播磨平定戦や毛利氏との戦いにおいて活躍した。竹中は播磨平定戦の途上で病没するも、黒田はその後も大名となった秀吉の配下として活躍し、九州において大名となり、秀吉没後の関ヶ原の戦いにおいても功績を挙げた。 ちなみに黒田は天正6年(1578年)の有岡城の戦いにおいて荒木村重の説得に失敗し拘束されるが、織田信長に寝返りを疑われ人質の松寿丸(黒田長政)が処刑される寸前に機転を利かせて匿ったのが竹中である。自身の命や竹中家を危険に晒してまで信長の命令に逆らっている事から、同僚として過ごした期間は短くとも、両者の間には親密な交友があったことが伺える。その恩に応えるためか、黒田は竹中の病没後に嫡子の後見役を務めた。 == 該当者 == ファイル:Takenaka_Shigeharu.jpg|竹中重治 (1544年 - 1579年) ファイル:Yoshitaka_Kuroda.jpg|黒田孝高 (1546年 - 1604年) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「両兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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