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二宮の変 : ウィキペディア日本語版
二宮事件[にきゅうじけん]
二宮事件(にきゅうじけん)、あるいは二宮の変(にきゅうのへん)は、三国時代における約10年間に及ぶ政治闘争の総称。孫和孫覇の太子廃立争いであるが、その裏に江南の貴族社会的性質を見出す向きもある。両者の父親であり、呉の皇帝であった孫権が問題の解決を先延ばしにしていたことがこの事件の一般的な原因とされる。この事件の結果、呉の国力は大きく衰退することとなった。
== 概要 ==

=== 発端 ===
229年に皇位に付いた孫権は、皇太子として長子であり、また聡明で知られた孫登を立てた。しかし、この孫登が赤烏4年(241年)5月にわずか33歳で病死してしまう。
病床にあった孫登は、遺書の中で、孫権が寵愛していた大懿皇后の子・孫和を次の太子に推し、孫権もそれに従い翌赤烏5年(242年)の正月に孫和を太子に任命した。しかし、その年の8月に異母弟の孫覇を魯王に立て、さらに孫権はこの両名をほぼ同様の待遇で接したため、群臣の間で太子廃立が行われるという予測が広まった。
赤烏6年(243年)11月、19年間、丞相の任にあった顧雍が死去する。翌赤烏7年(244年)正月、呉の名将として知られる陸遜が丞相に任じられたが、荊州の統治という職務はそのままだったため、首都の建業は丞相不在という状況になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「二宮事件」の詳細全文を読む



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