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二宮洋一 : ウィキペディア日本語版
二宮洋一[にのみや ひろかず]

二宮 洋一(にのみや ひろかず、1917年11月22日 - 2000年3月7日)は、兵庫県出身のサッカー選手、サッカー指導者。第二次世界大戦後初のサッカー日本代表監督を務めた。現役時代のポジションはフォワード
== 略歴 ==
兵庫県御影師範学校付属小学校を経て、1934年に旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)を卒業し、慶應義塾大学予科に進学。予科時代より慶應義塾体育会ソッカー部に入部して、予科1年より関東大学リーグに出場した。1938年より慶應義塾大学に進学。1941年の大学卒業まで慶應義塾ソッカー部および慶應BRBの選手として、全日本選手権大会(現在の天皇杯全日本サッカー選手権大会)で、4度の優勝(1936年、1937年、1939年、1940年)を経験した。また、在学中の1939年8月27日に開催された関東州代表戦でサッカー日本代表として初出場を果たした。
太平洋戦争後は慶應BRBおよび全慶應のメンバーとして、天皇杯で3度優勝(1951年、1952年、1954年)した。
1951年にはサッカー日本代表の選手兼任監督として、ニューデリーで開催された第1回アジア競技大会に出場した。
その後も選手として何度か日本代表に名を連ねたが、1954年の天皇杯決勝を最後にトップレベルの競技生活からは退いた。1976年に日本サッカー協会理事に就任、日本クラブユースサッカー連盟会長などの役職を歴任した。
2000年3月7日、東京都港区肺炎により死去した〔「二宮洋一氏 死去」 朝日新聞、2000年3月9日、2014年9月22日閲覧〕。
2006年4月、サッカー功労者として日本サッカー殿堂に選出された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「二宮洋一」の詳細全文を読む



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