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二川 孝広(ふたがわ たかひろ、1980年6月27日 - )は、大阪府高槻市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ガンバ大阪所属。ポジションはミッドフィールダー。元日本代表。 == 来歴 == 小中学生時代は地元高槻市の強豪クラブである高槻FCに所属した。小学時代は大阪でもベスト4が最高成績だったが、中学時代は3年時にクラブユース選手権関西大会でJリーグクラブの下部組織を抑え優勝し、自身もMVPを受賞した。 1996年にガンバ大阪ユースに入団。主にボランチで活躍。3年時はキャプテンとしてチームを牽引し、クラブユース選手権にて優勝、高円宮杯にて準優勝という成績を収めた。 1999年にトップチームに昇格。同期昇格の大黒将志とはユース時代からの名コンビで知られ、大黒が札幌にレンタル移籍した1年間を除いて、2005年まで同じチームでプレーしていた。 昇格2年目の2000年頃から出場機会を増やし、2002年にガンバ大阪の監督に就任した西野朗からも中盤の様々なポジションで起用され、繊細なボール感覚と抜群のパスセンスを発揮し、遠藤保仁らと共にガンバの攻撃サッカーの中軸を担い〔18歳・宇佐美、G大阪の「黄金の中盤」に新風 日本経済新聞、2010年12月2日〕、2003年からは背番号を10番を背負うようになる。リーグ初制覇した2005年は、主に3-5-2の中盤の左アウトサイドとして出場していた。2006年以降は主に4-4-2の二列目の左MFとして出場している。 2006年8月アジアカップ予選の西アジア遠征で日本代表に初招集される。同年10月4日のキリンチャレンジカップ2006・ガーナ戦で背番号10を着けてA代表初出場を果たした。2007年のリーグ戦は全試合に出場した。 2008年、Jリーグ選抜に選出され〔「JOMO CUP2008 8/2@国立」メンバーにバレー&二川選手が選出! ガンバ大阪オフィシャルサイト、2008年7月7日〕、韓国・Kリーグ選抜とのオールスターゲームJOMO CUPに出場。AFCチャンピオンズリーグ2008では、グループリーグで3得点を決め、決勝第2戦のアデレード・ユナイテッド戦でも、ルーカスの2得点目をアシストし、クラブのアジア制覇に貢献。同年度の日刊スポーツ提供「黄金の脚賞」を受賞した〔2008 BMW提供ファンが選ぶ『MVP』を中澤選手が受賞!そして恒例の日刊スポーツ提供『黄金の脚』賞は二川選手に! ガンバ大阪オフィシャルサイト、2008年12月7日〕。同年12月に開催されたFIFAクラブワールドカップ2008では怪我をおして出場するが、初戦のアデレード戦で怪我していた部分を再び痛め、本人も楽しみにしていたヨーロッパ王者マンチェスター・ユナイテッドとの準決勝は欠場。3位決定戦のCFパチューカ戦では途中出場するも、試合終了間際にレッドカードを提示され退場処分を受けた。 2009年は前年に負った怪我により復帰が遅れるも復帰以降は好調を維持し、天皇杯決勝の名古屋戦では、試合を決定づける3得点目を決め、チームの天皇杯連覇に貢献した。2010年の前半戦は攻撃陣に負傷者が続出する中、獅子奮迅の活躍を見せたものの、夏に体調を崩してからは絶不調に陥り、後半戦はこの年台頭した宇佐美貴史の活躍もあり控えに回ることもあった〔。それでも2011年には見事復活を遂げ、4年ぶりにリーグ戦30試合以上に出場した。2012年もシーズン通して安定した活躍を見せるもチームは初のJ2降格となった。 自身初のJ2でのプレーとなった2013年、多くの若手選手が台頭したが、シーズン通してレギュラーの座を譲らずガンバのJ2優勝と1年でのJ1復帰に貢献した。 2014年は主にスーパーサブとして出場し、ガンバの昇格1年目での三冠達成に貢献した。2015年の出場はほとんどがカップ戦でリーグ戦は過去最小のわずか2試合の出場に留まった。 2016年、ガンバ大阪U-23のJ3リーグ開幕戦にオーバーエイジ枠として出場し、同一チームでのJリーグ3カテゴリー出場。4月3日の第3節・カターレ富山戦ではJ3初ゴールも挙げた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二川孝広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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