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二木康之 : ウィキペディア日本語版
二木康之[ふたぎ やすゆき]
二木 康之(ふたぎ やすゆき、1947年4月 - )は、日本の医学者小児科医医学博士)。佛教大学保健医療技術学部理学療法学科教授。専門は発達神経学。
==来歴==
兵庫県加古川市出身。4歳時に右股関節結核を患い、自宅安静を指示されて幼稚園に入園せずに内科的治療を受けたが、奏功しないために大阪大学医学部附属病院整形外科を受診した。しかし、待機患者が多数いたために入院を果たせず、小学校2年生時に大阪厚生年金病院(清水源一郎院長)で手術を受け、2の1病棟(小児整形外科病棟)に半年入院となる。同室には同病の吉田恒俊(後に奈良弁護士会会長)らがいた。その原体験から医学の道を志す。
明石市立衣川中学校兵庫県立明石高等学校大阪大学医学部卒。

学生時代は全国障害者問題研究会阪大医学部学生サ-クル(顧問:丸山 博衛生学教室教授)を結成して、初代部長。部室は伝統あるアルファ会部室を借用した。サ-クルには真下 節(大阪大学医学部麻酔科教授)、仙波恵美子(県立和歌山医科大学第二解剖学教室教授)、郭 麗月(桃山学院大学社会学部社会福祉学科教授)、廣田憲二(日生病院副院長)、東 照正(千里金蘭大学看護学部教授)、小山高澄(小山医院、大阪府保険医協会理事、国民救援会此花支部長)らがいた。大阪大学医学部附属病院小児科で研修の後、大阪けいさつ病院小児科(蒲生鐡男部長)、耳原総合病院小児科(今村雄一副院長、沼島真砂部長)、大阪府衛生部勤務(府立母子保健総合医療センタ-開設準備)、大阪大学医学部研究生(指導:小児科 清水 寛講師)、大阪府立母子保健総合医療センター小児神経科長を経て、2000年4月佛教大学社会福祉学部教授。2008年4月保健医療技術学部に移り、学部長。
1981年10月開設の大阪府立母子保健総合医療センタ-(周産期医療部門のみで発足)では大阪府職員労働組合衛生支部母子医療センタ-分会初代副分会長を務めた。大久保忠雄分会長(事務)、安永国広書記長(放射線科)、高瀬伸一執行委員(事務)、谷本好子執行委員(母性棟)らとともにセンタ-設立時の人員要求の実現、特に母性棟(産科病棟)および新生児棟の8人夜勤体制確立に役割を果たした。また、1985年7月府職労衛生支部母子医療センタ-分会発行の第2期事業(小児医療部門)開設に向けたパンフレット「母子保健総合医療センタ-の衛対審答申(大阪府衛生対策審議会答申、昭和49年11月27日付、会長釜洞醇太郎阪大総長より黒田了一知事に答申)に基づく2期事業の実現をめざして=私たちの緊急要求書(案)にみなさんの積極的な御意見を=」の執筆を担った。
30歳代前半から変形性股関節症が進行し、しだいに歩行が困難となったために、40歳で右股関節固定術を大阪大学医学部附属病院整形外科で受けた。しかし、その後は股関節固定の影響で強度の腰痛に悩まされ続け、社会的活動に大きな制限を受けることになった。58歳時に腰痛を軽減する目的で関節固定をはずして人工股関節に転換する手術を関西医科大学附属滝井病院整形外科飯田寛和教授の執刀で受ける。自身の体験を「股関節固定者の二次障害と人工股関節全置換術」(障害者問題研究2008;35:308-313)にまとめた。また、稾 賢一、飯田寛和、和田孝彦、徳永裕彦、加藤充考「股関節強直に対する人工関節置換術」(整形・災害外科2009;52:1005-1010)の症例5は本人である。腰痛は術後3年目から著しく改善した。
専門は発達神経学。学術論文のテーマは、障害の早期診断のための発達神経学的診察手法及び神経生理学的検査の応用、神経学的ハイリスク児の追跡調査による予後研究に関するものが多数を占める。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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