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二木 謙三(ふたき けんぞう、1873年(明治6年)1月10日 - 1966年(昭和41年)4月27日)は、日本の細菌学者、医師。 秋田県秋田市千秋明徳町、樋口順泰の二男として出生、二木家の養子となる。山口高等学校を経て、東京帝国大学医学部を卒業、東京市立駒込病院に勤務。1903年(明治36年)赤痢菌「駒込A、B菌」を分離する。1905年(明治38年)ドイツに留学、ミュンヘン大学教授のグルーバーに師事。1909年(明治42年)駒込病院副院長、東大講師、医学博士、1914年(大正3年)年東大助教授、1915年(大正4年)高木逸磨等と共に「鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータ」発見。1919年(大正8年)駒込病院長、1921年(大正10年)東大教授。1929年(昭和4年)学士院賞受賞、日本医科大学、東京歯科医専、日本女子大学教授となる。1951年(昭和26年)日本学士院会員、日本伝染病学会(現・日本感染症学会)長。1955年(昭和30年)文化勲章授与。1966年(昭和41年)93歳で没す。天然免疫学理の証明の実績を遺し、玄米食の提唱、実践運動や教育者として功績を残した。歴史学者で國學院大學名誉教授、日本中世史(戦国史)、有職故実の二木謙一の祖父。 ==生涯== *1873年(明治6年) - 秋田県秋田市土手長町(現在の千秋明徳町、秋田警察署の旧小野岡邸隣)で生まれる。父・樋口順泰、母・ヱイの、男4人、女3人の二男。樋口家は代々医家で、秋田藩主佐竹候の御典医を務めた家柄で、父の順泰は江戸の浅田宗伯に学んだ漢方医、秋田藩の医学館七部書会頭を務めた。維新後は町医者として、貧しい患者には薬といっしょに食物も与えた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月7日、夕刊7頁<4>。2013年10月30日閲覧〕。 *1876年(明治9年) - 二男のため二木家へ養子に出された。二木家は土崎港にあり、樋口家とは跡継ぎがない時、互いに養子を出す親類だった〔。 *1878年(明治11年) - 5歳の時に生家から漢学者稲川直清(1823年-1891年)の塾に通った。謙三は病弱で生家で暮らしたが、父のしつけは厳しかった。父子ながら距離を保ち、勉強するように説き、よき師として稲川直清に通わせた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月10日、夕刊7頁<5>。2013年10月30日閲覧〕。 *1882年(明治15年) - 謙三は9歳で小学校に入学した、今の秋田市立明徳小学校の前身である。8年制だったが6年間在籍し、1888年(明治21年)に卒業、中学校に進んだ。漢方医の父は妻に「この子は20歳まで生きられるのだろうか?」と嘆いていたという〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月12日、夕刊7頁<6>。2013年10月30日閲覧〕。 *1885年(明治18年) - 12歳の時、正式に二木家に入籍、家督相続し二木家の戸主となった。生家と同じ地番に新戸籍をたてた〔。 *1888年(明治21年) - 中学校は秋田県立尋常中学校(現在の秋田高校)。県唯一の中学校で、虚弱体質は改まらず、年中病気がちだった〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月14日、夕刊7頁<7>。2013年10月30日閲覧〕。 *1893年(明治26年) - 尋常中学校を卒業。第六回卒業生で、『秋高百年史』には謙三、東洋拓殖会社総裁の佐々木駒之助、本校出身最初の将官、陸軍少将の長嶺俊之助、大衆医療に貢献した森田資孝がいた〔。 *1894年(明治27年) - 謙三は大学予科である山口高等学校に編入した。同年8月、日清戦争が始まったが、謙三は戦争にはほとんど関心がなかった。既に素食、少食の食事療法を身に付け、衣類は自分で針を持ちつぎを当てた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月21日、夕刊7頁<10>。2013年10月30日閲覧〕。 *1895年(明治28年) - 謙三は山口高校の教頭・北条時敬の家に入った。既に北条に心酔して「身近で暮らし直接教えを受けたい」と考えた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)11月26日、夕刊7頁<11><12>。2013年10月30日閲覧〕。 *1897年(明治30年) - 山口高校を卒業した謙三は東京帝国大学に進んだ。北条家を去る際、北条時敬は謙三に寄宿すべき人物を紹介した。織田小覚がその人である。旧加賀藩士で、当時は内務官僚だった。東京・牛込若宮町に屋敷を構えていたが、若い頃に肺結核を病み、独身を通していた。確斎と号して漢字、国学をよくした。後に旧藩主前田家に招かれ、侯爵前田利為の教育係を務めた。蔵書家、禅の研究者でもあった。高等中学校のころから興味を持っていた禅を体系的に勉強した〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月3日、夕刊7頁<14>。2013年10月30日閲覧〕。 *1899年(明治32年) - 謙三は大学の講義に熱意をしめさなかった。反骨精神によるもので、当時の医学教育が「洋方偏重」であったことに対する反発だった。謙三は講義では決して教えない漢方を、織田小覚の蔵書を師に勉強した。謙三の保健学に、西洋医学の長所は巧みにとり入れられている。ベルツは「日本人特有体質論」とでもいうべき説を主張しているが、これが謙三の保健学と極めてよく共通している〔。 *1900年(明治33年) *秋田市の小学校当時から終始、謙三と同級だった人物がいる。遠山景精である。謙三より年齢が2歳下で、その遠山家には長女キヨ、景精の妹がいて、謙三とは7歳違いなので、東大に入学した年は17歳。謙三はキヨに恋した。キヨには恋文(漢文の結婚申込書)で結婚を申し入れた。やがて婚約が整い、大学を卒業するのを待って結婚式を挙げることに決まった〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月10日、夕刊7頁<17>。2013年10月30日閲覧〕。 *10月5日、生母・樋口エイが死去した。享年53歳。 *1901年(明治34年) - 東京帝国大学を卒業、東京市立駒込病院(現在は都立の総合病院)に就職。卒業の年に、当時の東京市が常設の伝染病専門病院として開院した。収容力も当時としては大きく70床あった。新装開院を機会に帝大出の医学士を採用、医療の充実を図ることになった。当時、伝染病は最も恐ろしい病気だとされており、今の癌以上のものだった。学問的にはほとんど未知の分野。大学でも講義がなかった。駒込病院が医学士採用を決めても、希望者がいなかった。謙三に続いて親友の大滝潤家、横田利三郎が志願、医局入りした。謙三らの医局入りで、駒込病院は日本の伝染病研究の中心となる。就任早々、連夜、深更まで居残って顕微鏡をのぞいた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月12日、夕刊7頁<18>。2013年10月30日閲覧〕。 *1902年(明治35年) *春、旧秋田藩士弥三郎の長男・遠山景精の長女キヨと結婚した。 *謙三は東京市立駒込病院の勤務医となったのを機に、ひげをたてた。カイゼルカイゼル髭である。小柄で、体格的には貫禄不足であったが、ひげがそれを補った。ひげは謙三が腹式呼吸や玄米食運動を進める上でも宣伝効果があった。各地で講演した後、新聞にひげがピンとはねた写真が載ると、それがまた「ひげ先生の保健法」と評判になった。ひげとともに謙三のもう一つの看板は黒いモーニングコートであった。冬は当然、真夏でも同じ冬物のコートを着用、年中服装を変えることがなかった〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月15日、夕刊7頁<19>。2013年10月30日閲覧〕。 *6月26日、午後4時頃 - 東京市立駒込病院に一人の患者が担ぎこまれた。64歳の男性だった。担ぎ込まれてから1時間20分後、死亡してしまった。コレラ事件の幕開きである。この事件によって謙三は細菌学者として名を知られることになる。当時の日本細菌学会界を二分して、いわゆる「コレラ竹内菌」が存在するかどうかが争われた事件である。このとき、北里柴三郎が、私立の伝染病研究所を設立していて、細菌学に関する限り、東大と対抗、というよりは、むしろそれをしのぐ勢力になっていた。死亡から5日目、北里側の伝染病研究所が内務省を通じて、「患者の便からコッホ氏コレラ菌を分離した」と発表した。一方、東大側ではその直後に、内務省の中央衛生会で、「コッホ氏コレラ菌ではない別種の細菌を検出」と発表した。双方が、それぞれの研究方法を非難し合って、延々と論争が続いた。東大側が主張するように、コッホ菌とは別種の菌であることを立証した。細菌の鑑別には疑集反応と呼ばれる方法が取られる。それには馬の免疫血清が用いられていたが、これだけによる検査ではコッホ氏コレラ菌も竹内菌も区別ができない。二木はそれを兎の免疫血清で検査し、相違を明確に証明した。謙三はこれを基に、コレラ病原菌多種説を立てた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月19日、夕刊7頁<21>。2013年10月30日閲覧〕。 *12月24日 - 東京でペスト患者第一号が発生した。日本上陸第一号は明治32年に広島で出た。直後に大阪でも患者が出て、さらに東京侵入の三カ月前、横浜でも患者が出た。この時は当局が拡大を恐れて、患者の住居など20戸を焼却している。東京侵入はもはや避け難い情勢で、東京市は1902年(明治35年)9月10日付をもって、駒込病院に「ペストの発生に備えた体制づくり」を指示している。これに基づき、同院は横田利三郎、二木、大滝潤家の3人を中心にプロジェクトチームを編成、患者が発生したら、閉鎖している本所病院に隔離することなどを決めていた。患者発生の一報がもたらされたのはこうした状況下においてであった。患者は紡績工場の女工たち。紡績工場にはインドから綿が輸入されていて、その中に紛れ込んできたネズミがペストをまき散らかしたものだ。12月24日夜のことであった。「飛報あり、本所のある工場に『ペスト』擬似患者二名生ずと。宴終わるころに至りて一同武者振るいをなす。医院一同駒込病院に宿直す。東京市との電話のたゆることなく戦雲たなびき、前途多難なり」。駒込病院では、直ちに本所病院を開院、翌25日、臨時病院長に決まった横田が到着すると、玄関の土間に4人が運ばれていて、1人は既に死亡していた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月24日、夕刊7頁<22>。2013年10月30日閲覧〕。 *1903年(明治36年) *本所病院の診療活動は極めてハードなものとなり、超過密な勤務状態が大きな不幸を招いた。横田の一瞬の油断が大事件となった。患者を手術中の横田が、はねた血を右の目に受けて感染し、帰らぬ人となってしまった。その場で消毒を入念に行ったはずだったが、7日から発熱、右目、右耳、あごの腫れがひどく、強い痛みを訴えた。病院挙げての看病も空しく15日午前5時死去した。謙三は「横田が夜になると暴れるのです。右の目の下のところ(手術の)に傷があって、そこからコレラ菌が出ている、看護婦に看護をさせることは出来ない。私が押さえながら看病した。だんだん心臓が弱って、そして死んだのです。横田は結婚したばかりで、奥さんは妊娠していた」。このペスト禍での患者は横田を加えて13人を数え、うち8人が死亡した。横田の葬儀は東大が大学葬をもって報いた。また、東大の級友らが胸像を造って、霊をなぐさめたが、その銘文は謙三が書いた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月26日、夕刊7頁<23>。2013年10月30日閲覧〕。 *11月18日 - 長男順益が誕生した、名付け親は謙三の師・織田小覚である。新婚の二人は謙三の寄宿先、織田小覚邸の2階で新しい生活を始めたが、間もなく、駒込病院の近くの浅嘉町に古い茅葺屋根の手ごろな一軒屋を見付けて移転し、病院での診療と、研究に没頭することができるようになった。研究に没頭して、真夜中の2時、3時が普通だった。〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)12月17日、夕刊7頁<20>。2013年10月30日閲覧〕。 *この頃の駒込病院は「東大細菌学研究室」としての役割を担っていた、患者の検査なども、今のようにシステム化されておらず、医師が診療の合間をみてやっていた、この劣悪な条件の中で謙三は赤痢の診療に貢献する貴重な発見と研究をした。現在では、「赤痢」といえば細菌性赤痢、アメーバ赤痢、それに疫痢を意味するものということで常識になっているが、当時はまだ未解明の部分が多い伝染病であった。謙三は先年のコレラ竹内菌発見の経験から、赤痢菌も病原菌が複数である可能性が強いという考えを抱き、その前提で徹底的に検査した。その結果、駒込病院の患者から新しい二種類の赤痢菌分離に成功した。これは多くの点で酷似していたが、患者血清に対する疑集反応やインドール反応などでその違いを明確に識別できた。「駒込A菌」「駒込B菌」と命名した。同年夏、同病院に入院した赤痢患者49人中、35人について調べたところ、20人から駒込A菌、15人から駒込B菌が分離されたが、志賀菌はわずかにその中の1人から検出されただけだった。赤痢は100%志賀菌によって発病するとしていたそれまでの学説を完全に覆したのである〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月7日、夕刊7頁<25>。2013年10月30日閲覧〕。 *1904年(明治37年) - 東京市は広尾病院を定員50名の予定で、8月3日に開院し、謙三が医長となった。腸チフス859人、赤痢425人、ジフテリア252人など伝染病患者の総計は1,565人と、開院以来の最多数を記録した。この状態の中で、謙三は伝染病研究が、自分の一生を賭けるのに値する仕事であえることをハッキリと意識した。駒込に勤めて三年目。コレラ竹内菌、赤痢駒込菌の発見で、「やっていける」という自身も出てきたはずだ〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月12日、夕刊7頁<27>。2013年10月30日閲覧〕。 *1905年(明治38年) *4月、謙三はドイツ留学を決意した。費用は実父の樋口順泰に援助を求めた。明治政府が漢方を完全に否定しており、順泰は医家樋口家の命脈を保つとすれば、二木家に養子に出したとはいえ、自分の息子に夢を託す以外に手はないと考えもしただろう。謙三の申し出を快諾した。ドイツ、ミュンヘン大学のグルーバー教授につくことが決まった〔。 *謙三に与えられたテーマは「自然免疫学理の研究」であった。具体的には、ウサギやモルモットが脾脱疽菌(炭疽菌)に侵されるのに、鶏や馬が侵されることがないのはなぜかを証明することであった。つまり生物が自然に持っている免疫を明らかにするための研究である。毎日2時間眠るだけで、2年半でとうとう研究を完成させた。「次々に新しい事実が分かってきて、面白くて仕方がなかった。寝食を忘れるほどに楽しかった」と言った〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月16日、夕刊7頁<28>。2013年10月30日閲覧〕。 *1906年(明治39年) - グルーバー教授は謙三を助手に任命した。大学への出入りや研究資材の自由な使用が認められた。グルーバー教授は、謙三の研究成果に評価を与えた。「研究は二木一人で成し遂げた」という証明書を添付したうえで、その研究論文をグルーバー・二木共著として世界に発表した。現在なおも医学の基礎的学理としてその評価は変わっていない〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月19日、夕刊7頁<29>。2013年10月30日閲覧〕。 *1908年(明治41年) - 謙三は3年間のドイツ留学を終えて帰国した。イスラエル、エジプトなどに旅行もしている。「当初、3年という計画で留学した。ところが2年半でそれを完成したので、残りを旅行に使ったわけです。」親しい人々に後でこう語っている。ドイツ留学の記念品は顕微鏡だった。当時の最高の顕微鏡で、これを戦災で消失するまで愛用した。神田小川町に一戸を構えた。5月6日には駒込病院に正式に復職した〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月23日、夕刊7頁<31>。2013年10月30日閲覧〕。 *1909年(明治42年) *4月1日 - 病院の服務規則の改定があり、新たに副院長制が設けられ、謙三がそれに任じられた。このころ、ドイツでまとめた「自然免疫学理の研究」の論文を提出、学位を申請した。また、「血小板並びにその作用について」「複式呼吸並びに腹圧増進について」という論文も続けて発表した。「医学博士」の学位を受けたのは、この年10月18日であった。学位の受領に先立って6月、母校東大の講師に任用された。それにより、臨床医、細菌学者であるとともに、教育者としての仕事もすることになった〔。 *謙三がドイツ留学から帰った翌年、3度にわたって秋田魁新報に謙三の保険法についての講和が掲載されている。1回目は2月18日から4回掲載で「精神的養成法と肉体的養成法」と題したもの。2度目は10月1日から7回にわたった連載で「呼吸健康法」というテーマ。3回目は11月25日付の単発記事で「牛の結核」というものである。内容はいずれも一般人を対象とした健康管理に関する話で、具体例を引いて輸すように述べている。後年「保健学の二木」とも言われるようになるのだが、いわば本業の細菌学、伝染病研究と並立させる形で保健法の普及や研究を始めたのはこのころからであった。二木は人形のほかにガラス細工で人体の循環器の模型を作り、赤く染めた液体を流して、腹圧を強めると血液が心臓にかえりやすいことを実検的に示したりもした。東大の講師で、しかもドイツ留学帰りの医学博士が、モーニングコート姿で、立派なカイゼル髭(ひげ)をひねりながら講演した〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月26日、夕刊7頁<32>。2013年10月30日閲覧〕。 *1910年(明治43年) *駒込病院副院長のまま、母校東大の講師兼務となった。謙三の講座は、「伝染病学」であった。講義は複式呼吸法の普及で、その講演がユニークだったが、教壇にたっても独自性を発揮した。医学会では「東の二木、西の佐多(愛彦)」といわれていたほど(佐多は大阪血清薬院経営、大阪医科大学の学長などを務めた病理学者)。講義が好評だった。「細菌学者二木」「保健学の二木」に続いて、「教育者二木」の姿が浮かび上がってくる〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月9日、夕刊7頁<38>。2013年10月30日閲覧〕。 *11月16日、二男・順福が誕生した。 *1911年(明治44年) - 謙三の講演を有志が聴講筆記して出版したとゆう冊子がある。「秋田中学に進学していた17歳のころ、生家樋口家の書生の中に神お官の息子がいた。この書生が神官の家に伝わるという国学書をよく読んでいた。その中に平田篤胤の『志都乃石屋(しずのいわや)』がった。ある時、その一節を偶然に読んで、大きく心を奪われた・・・」これを世に「二木式複式呼吸法」として発表するまでに約10年の歳月を要している。ドイツ医学で合理的に説明したい。二木の勉強が始まった。そして、留学中に医学的に説明できる方法を見つけた。二木にとって、このことを説いた国学者平田篤胤は郷里秋田が生んだ先覚である〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)1月28日、夕刊7頁<33>。2013年10月30日閲覧〕。 *1912年(明治45年) *3月18日 - 二男・順福が死亡した。享年3歳。 *8月19日 - 長女・ミチが誕生した。 *1913年(大正2年) *駒込病院では、伝染病患者が急増一途で、看護婦の需要が高まり、その養成が急務となった。1904年(明治37年)7月、附属養成所が設置された。養成所は最初一ヶ月程度の短期間だったが、1913年(大正2年)からは、3年間の修行として、かなり高度な看護技術を教えている。謙三はこの養成所とは別に当時、神田小川町にあった私立の東京看護婦学校で教え、1923年(大正12年)6月からは校長を務めている〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月30日、夕刊7頁<57>。2013年10月30日閲覧〕。 *11月4日 - 三男・順好が誕生した。 *1914年(大正3年)12月 - 北里柴三郎が所長の伝染病研究所が、東大の附属機関となった。同研究所は、北里柴三郎がドイツ留学から帰国して活躍の場を持たないでいた時、福沢諭吉の尽力で設立された。1892年(明治25年)のことで、「大日本私立衛生会附属研究所」としてスタートした。その後、1899年(明治32年)、国に全部を寄付、内務省管轄の「国立伝染病研究所」となっていた。ワクチンや免疫血清の製造などもしていたが、伝染病専門の研究機関としては日本唯一の存在。二木は伝染病研究所技師の辞令を受け、同時に東大助教授となった。駒込病院へは週に3回、それも午後から勤務するようになった。謙三はまさしく「水を得た魚」であった。複式呼吸法などで、このころから「保健学の二木」と言われたりはしていたが、謙三の表看板は「細菌学者の二木」である〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月16日、夕刊7頁<40>。2013年10月30日閲覧〕。 *1915年(大正4年) - 伝染病研究所に赴任した翌年、沖縄で奇病が発生したというので、調査に出向いた。沖縄に行ってみると、男はコウガンが、女は乳房が腐って落ちるという病気が流行していて、大変な騒ぎだった。しかし、原因は意外に簡単に判明した。連鎖球菌の一 種、丹毒菌の変形したものが、皮膚に付着して起き、それが皮膚伝染したものであった。鼠こう症スピロヘータの発見であり、日本脳炎の診断法確立である〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月18日、夕刊7頁<41>。2013年10月30日閲覧〕。 *1916年(大正5年)4月8日 - 謙三の実父・樋口順泰が死去した。享年72歳。当時としては長寿で、天寿を全うしたといってよいだろう。二木が伝染病研究所技師となった翌々年で、二木が細菌学者としてその地歩を確実に築き出したころであった。生母エイは1900年(明治33年)10月5日、東大に入学して3年目の時、脳卒中で既に世を去っていた。53歳だった。父の死によって、生家は弟の三男・樋口譲助が家督相続人になるのだが、まだ幼かった。樋口家は順泰の死によって、医家の看板をおろした。当主が幼いこともあって、家運が日ごとに衰えていく。藩政時代は広く名の知られた家であったが、時代の大きな流れには逆らえなかった。樋口家はやがて二木が買取る形で管理し、1935年(昭和10年)代までは、かつての面影をとどめた。だが、それも二木が東京で学校経営に乗り出して資金が必要になったためであろうか、人手に渡ってしまう。今、屋敷跡はほとんどが秋田警察署となっている〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月23日、夕刊7頁<43>。2013年10月30日閲覧〕。 *1917年(大正6年)10月31日 - 二女アツが誕生した。 *1918年(大正7年) *5月3日午前3時頃、謙三は人力車で芝愛宕下を通行中に、後方から来た自動車に追突されて転落し顔面、手足に擦過傷を負った。この当時、謙三は駒込病院の副院長、伝染病研究所技師兼附属病院長、東大助教授、東大附属病院分院内科科長、東京歯科医学専門学校講師、それに内務省防疫官、医師試験委員も兼務していた。謙三自身のプライベートな仕事として、複式呼吸法の普及活動があったし、玄米食についても研究がヤマ場に差し掛かっていたころである。一日一食、二、三時間の睡眠という超人間的な生活であったというが、それでも寸暇も惜しむ毎日であったろう。忙しいといえば、このころ、侯爵前田家の主治医も務めていた。前田家は断るまでもなく旧加賀藩主で、師・織田小覚の縁につながるものだ〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月25日、夕刊7頁<44>。2013年10月30日閲覧〕。 *冬 - 謙三の長年の上司、駒込病院院長兼東大教授の宮本叔が倒れた。宮本は翌1919年(大正8年)10月に死亡した。宮本の死因はこの時大流行したインフルエンザ(スペインかぜ)にやられたものであった。謙三が宮本から得たものは多く、自らが先頭に立ち宮本の銅像を建立した。宮本の死亡によって、1月、謙三がそのまま昇格し駒込病院長となった。『駒込病院百年史』によれば、院長は初代が入沢達吉、宮本は2、4代と2度務め、3代が橋本節斎、謙三が5代目となる。1920年(大正9年)再び大流行したのである。院長就任で二木の超過密ぶりは想像して余りある。院長就任の直前には日本女子大学の講師になっているし、9年4月からは実践女子専門学校の講師も引受けていた〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)2月27日、夕刊7頁<45>。2013年10月30日閲覧〕。 *1920年(大正9年)12月8日 - 三男・順好が死亡した。享年7歳。 *1921年(大正10年)2月 - 母校・東大の教授となった、47歳の時である。細菌学(伝染病学)を教えた。当時の日本の細菌学界(伝染病学界)は、伝染病研究所飛び出した北里柴三郎が、私立北里研究所を持って活躍していた。北里はこの時期既に、東大とは越え難い壁を作っていた。そして北里に続くのが謙三であった〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月4日、夕刊7頁<47>。2013年10月30日閲覧〕。 *1923年(大正12年)9月1日午前11時58分 - 関東大震災が起こった。謙三は震災の直後、大急ぎで伝研での処理を済ませると、駒込病院に向かった。建物には殆ど被害が無かった、患者も職員も無事だった。当時開院中だった本所病院に向かった、本所病院は類焼した。その避難の難儀は筆舌に尽くせぬものだったが、医師、看護婦ら職員の献身的な働きで患者を全員避難させた。本所病院の院長代理だった黒田昌恵の報告によると、「赤痢や腸チフスなど180人ほど患者が入院していましたが、そのほとんどは重症で、少しも身動きの取れぬ脳症を起こした者ばかりでした。私は建物の倒壊を考え、患者をベッドの下へ寝かせるように指示した〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月6〜11日、夕刊7頁<48><49><50>。2013年10月30日閲覧〕。 *1926年(大正15年)9月22日 - 日本伝染病学会(1975年3月(昭和50年)に日本感染症学会と名称を変えた。)が設立された。東大法医学教室で設立総会が開かれ、謙三が初代会長に選出された。謙三はこの後、1948年(昭和23年)4月の第22回総会で名誉会長となって退くまで、実に22年間にわたり、会長を務めることになる。また、同学会は臨床研究を重視することにしたため、本部を駒込病院に置いた。こちらは1920年(昭和45年)まで続いた。設立に参加したのは2,503人であった。二木らは「700人集まれば学会として格好がつく」と言っていたというから旗揚げは大成功だった。会長の二木が総会の座長を務めた。それは十数年も続いた。終戦後の混乱の中でも学会を休むことはなかった〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月13〜16日、夕刊7頁<51><52>。2013年10月30日閲覧〕。 *1927年(昭和2年) - 東京市立の五つの病院が次々に新築落成した。1927年(昭和2年)12月、二木は最初に完成した大久保病院の院長を委属された(6年6月まで)。次いで1931年(昭和6年)1月、本所病院が落成すると、これまた院長委属があった(同年10月まで)。さらに同年4月、駒込病院が完工し、その院長としての仕事も忙しさを増した。木造の駒込御殿が解体されて、鉄筋コンクリートの新病院となった。新しい駒込病院は、地下1階、地上3階。延べ約16,000平方メートル。暖房完備の近代的な建物。ベッド数は伝性病500、普通119。外来は1日300人をさばける規模だった。落成式は5月16日の午後行われた。この年の10月、二木は思わぬ事件で院長を辞任することになる。世代交代の大きな波であったろう。この時、二木58歳。「人生80年」といわれる現在ならともかく、「人間50歳」時代のことである〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)3月20〜23日、夕刊7頁<54><55>。2013年10月30日閲覧〕。 *1931年(昭和6年)12月 - 長女・ミチは石川県出身の増田定吉と結婚した。 *1932年(昭和7年)1月3日 - 長男・長男順益が死亡した。享年30歳。 *1933年(昭和8年) *3月 - 謙三が60歳になり、東大教授を定年退官した。当時、伝染病研究所技師、東大附属病院分院内科長も辞めた。母校東大で初めて教鞭を執ったのは、ドイツ留学から帰国した1909年(明治42年)6月、36歳の時であったから、通算23年9ヶ月間、教壇に立った。最初に伝染病学の口座を持ったときは講師で後、1914年(大正3年)12月、42歳を目前にして助教授に進んだ。さらに1921年(大正10年)2月、48歳で教授になった。この間、謙三自身が若手の細菌学者から、細菌学・伝染病学界のトップになった〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)4月8日、夕刊7頁<61>。2013年10月30日閲覧〕。 *〜1935年(昭和10年) - 謙三は国内は言うに及ばず海外にまでよく旅をした。海外には1933年(昭和8年)、1941年(昭和16年)の二度中国大陸へ渡った。1935年(昭和10年)には台湾にも足を延ばした。二木は宴会好きで酒は若い時分から強かった。持参の玄米粉を口に含んで杯を傾けたが、興がのると、一つ覚えの「山で赤いのはアザミの花よ/家で怖いのは兄嫁さまよ…」という歌を大声で歌った。駒込病院や伝染病研究所の慰安会、忘年会などには、退職後も暇をつくっては参加した。伝染病学会には、卒寿まで出席し、その宴会では仮装などして楽しんでいる〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)4月13日、夕刊7頁<63>。2013年10月30日閲覧〕。 *1940年(昭和15年)2月8日 - 二女・アツが石川県出身の増田友吉と結婚した。養子となった友吉が二木家を継いだ。 *1943年(昭和18年)2月24日 - 妻・イヨが死亡した。享年64歳。 *1955年(昭和30年)11月3日 - 謙三は文化勲章を授与された、82歳の秋の「文化の日」であった。受章者の決定が前月11日で、その翌日の秋田魁新報朝刊に文部省発表の記事が載り、謙三の略歴が紹介されている。「二木謙三(医学)秋田市出身、82歳、明治34年東大医科卒、医博、同38年から3年間独ミュンヘン医大に留学、帰国後駒込病院副院長、伝研技師、東大助教授を経て1919年(大正8年)、同病院長、東大教授となり、昭和元年伝染病学会長、同5年日本医大教授、同26年学士院会員に選ばれた。この間、昭和4年鼠こう症の研究に対し学士院賞を受ける。伝染病、細菌学の権威。著書には専門の論文集のほか「複式呼吸と健康」などがある。豊島岡女子学園理事長を務めている」続いて14日付朝刊には、それを祝う記事が掲載された。「本県が生んだ日本伝染病、細菌学界の至宝というより、一般人には玄米食や複式呼吸などの健康法で有名な二木謙三博士(82)が晴の本年度文化勲章受章者に内定して百万県民を喜ばせている。(後略)」謙三が最年長で、皇居での親授式では、慣例によって、受章者を代表して天皇陛下に謝辞を述べた。記念撮影でも3人ずつ前後2列に並んだその中で前列中央に座った。皇室崇拝者でもあった二木にとって、一世一代の晴れがましい一日であった〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1986年(昭和61年)10月29日、夕刊7頁<1>。2013年10月30日閲覧〕。 *1966年(昭和41年) - 「私は百歳まで生きてみせます。玄米菜食を通せば、人間は百歳まで生きられるものです」謙三はしばしばこう述べていた。しかし、90歳を越してみると、周囲の人がみても、はっきりと体力が衰えていくのが分かるようになった。それまで決して欠席したことがない伝染病学会総会にも、1963年(昭和38年)からは姿を見せなくなった。1965年(昭和40年)、92歳で修養団長を辞任した後は、決まった仕事もなくなり、自宅内で過ごす時間が増えた。こうして1966年(昭和41年)3月25日、無病を誇っていた二木が、ついに風邪を引いてしまった。家族や弟子たちが老人性肺炎になるのを懸念、入院させた。入院先は、東大医科学研究所と名前を変えていたかつての伝染病研究所の附属病院である。謙三自身が初代院長を務めた病院のベットで、弟子たちの治療を受けた。診察の結果、気管支肺炎が認められた。天寿は刻々と迫っていた。4月8日、自発的排尿が不能となる。23日になると、食事もほとんど食べなくなった。そして、27日、飲み物を口にした際にむせて何回も吐いた。これを境に容態が急変した。この日、午前6時30分、二木はついに不帰の人となった。行年93歳。従三位が追贈された〔『顕微鏡と玄米と二木謙三・伝』秋田魁新報、1987年(昭和62年)4月27日、夕刊7頁<69>。2013年10月30日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二木謙三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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