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二条冬実[にじょう ふゆざね]
二条 冬実(にじょう ふゆざね)は、南北朝時代から室町時代にかけての公卿。関白二条師基の孫にして、関白二条教基の子。父祖と同様、南朝に仕えた。河内玉櫛荘(大阪府東大阪市)を本拠とし、玉櫛(たまくし)と号する〔「玉櫛」とは、冬実個人の号ではなく、南朝二条家(師基―教基―冬実)一門の家名であったらしい(『大乗院日記目録』延文5年5月8日条)。〕。
== 経歴 == 南朝の補任記録が残されていないために官歴は不明の点が多いが〔『南朝公卿補任』によれば、冬実の官歴は以下のとおりだが、年齢を始めとして根本史料との乖離が大きく、とても信用し得る内容ではない。 元弘2年/正慶元年(1332年)生誕、正平3年(1348年)従三位(左中将如元)、同7年(1352年)正三位、同10年(1355年)権中納言、同11年(1356年)従二位、同14年(1359年)権大納言、同15年(1360年)左大将、同16年(1361年)正二位、同17年(1362年)右大臣、同19年(1364年)左大臣従一位、同24年(1369年)関白氏長者。〕、中納言・中将から左近衛大将に転任し、弘和元年/永徳元年(1381年)12月には右大臣として見任。元中元年/至徳元年(1384年)6月までに叔父の教頼から関白職を譲られたと考えられ〔二条家本『玉葉』承安5年夏記の奥書に「元中元年六月八日進一見了、/関白長〔ママ〕」と見える。この長■(なが―)は下1字が不明であり、南朝二条家の中に該当する人名を見出せないが、系譜を鑑みると、冬実こそが長■に相当する人物として考えられる。おそらく長■は初名で、後に冬実と改名したのであろう。〕(前年冬の後亀山天皇践祚に伴うものか)、最終的に従一位左大臣に至った。関白を辞職して後、元中9年/明徳3年(1392年)閏10月に南北朝合一を迎えたが、天皇や他の廷臣とともに入洛した形跡はない。ただ、応永3年(1396年)正月の叙位の際、「自南方出京、号玉櫛人息」である良教が太閤二条師嗣の猶子となって、その推挙を受けていることから〔『経嗣公記』同年正月5日条〕、この時には既に在京していたようである。 以後しばらくの動向については史料を欠くが、晩年は出家して玉櫛禅門と号し、伏見宮の栄仁親王や貞成親王との親交を深め、親王主催の茶会・連歌などにたびたび参加していたことが『看聞日記』に見える。なお、同日記の応永24年(1417年)2月8日条によると、これより前に醍醐と山科との郷民の間で確執があったため、醍醐から帰る途中の冬実が巻き込まれ、山科の郷民らに一時拉致される事件が起こった。この年の秋から病気がちとなり、翌応永25年(1418年)12月23日に薨去。享年66。京都では割合に静かな後半生を過ごすことが出来たのであろう。貞成親王は冬実の人柄について「心操穏便、酒盛殊有其興人也」と評し、その死を惜しんでいる。 南朝歌壇においては、自邸で百首歌を催した他、「入道前関白家百首歌」に詠進し、准勅撰集『新葉和歌集』には「右大臣」として5首が入集する。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二条冬実」の詳細全文を読む
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