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二条 教良(にじょう のりよし)は鎌倉時代中期の公卿。二条と号した。従一位、権大納言。 関白左大臣二条良実の二男。兄弟に二条道良、二条師忠、二条兼基、二条経通らがいる。二男とされているが実は良実の嫡男二条道良と同い年である可能性が高い。母の出自の差により、兄道良が早世したあとは弟の師忠が家嫡にたてられたと考えられる。娘である二条教良女は歌人として名高い。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 文暦元年(1234年)に二条良実の二男として京に生まれる。寛元2年(1244年)2月11日、正五位下に叙され、同時に元服する。禁色を許される。同月16日、左近衛少将に任じられる。同年3月6日、従四位下に叙され左少将は元の如し。同年4月5日、正四位下に叙される。 寛元3年(1245年)1月5日、従三位に叙される。同月7日、左少将は元の如し。同月13日、伊予権守を兼ねる。宝治元年(1247年)、左近衛中将に任ぜられたか?宝治2年(1248年)10月29日、正三位に叙される。建長7年(1255年)2月13日、従二位に叙される。正元元年(1259年)1月6日、正二位に叙される。文応元年(1260年)には正二位行左中将兼播磨権守とある。この官位のまま文永11年(1274年)まで昇進がなかった。この間、文永8年(1271年)には父二条良実が薨去し喪に服している。 文永11年(1274年)9月10日、参議に任ぜられる〔庶流とはいえ摂関家の出身で40才ごろになってからの議政官就任が参議であり、あまり良い待遇ではない。他の兄弟たちの処遇と合わせ、今後検討の必要がある。〕。左中将は元の如し。建治元年(1275年)1月18日、備前権守を兼ねる。同年12月22日、中納言に任ぜられる。同日、弟の二条師忠が右大臣から左大臣に転任。弘安2年(1279年)12月12日、権大納言に任ぜられ同月29日には勅授帯剣を許される。弘安6年(1283年)2月11日、養母の喪を明ける〔二条良実の室従一位藤原灑子の養子となっていたか。〕。同年3月28日、権大納言を辞した。 正安3年(1300年)1月5日、従一位に叙された。嘉元元年(1303年)出家。没年は不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二条教良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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