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二条教頼 : ウィキペディア日本語版
二条教頼[にじょう のりより]

二条 教頼(にじょう のりより)は、南北朝時代公卿歌人。系譜は明らかでないが、関白左大臣二条師基の子にして、関白左大臣二条教基の弟と推定される。あるいは教忠教嗣(のりつぐ)と同一人か〔小木喬によれば、当時の改名は珍しいことではなく、『園太暦』に師基の二男として見える教忠(同記には八幡の戦いで戦死したとされるが疑問)や、東京大学史料編纂所蔵・大乗院伝来『摂家系図』に教基の弟として見える教嗣(伝不詳)は、教頼と同一人と推定しても大過ないとする。〕。南朝に仕えた。



== 経歴 ==
南朝の補任記録が残されていないために官歴は不明の点が多いが、正平11年/延文元年(1356年)4月に内大臣として初見、10年を経た正平21年/貞治5年(1366年)4月にもなお内大臣であり(還任か)、建徳2年/応安4年(1371年)2月に自邸で主催した『三百番歌合』においては右大臣であった。天授元年/永和元年(1375年)には関白で、翌天授2年/永和2年(1376年)にも同じく関白であり、弘和元年/永徳元年(1381年)12月に成立した『新葉和歌集』には関白左大臣として見任。その後、関白職を甥の冬実(長か)に譲ったと思われ、元中6年/嘉慶3年(1389年)正月には既に故人となっていたことが花山院長親の『耕雲千首奥書から知られる〔奥書中に「故二条前関白教頼公」とあることによるが、これは教頼が関白に在職していた事実、ひいては『新葉和歌集』の「関白左大臣」が教頼であることを示す唯一の史料としても意義深い。この史料が大正時代八代国治によって提示される以前には、「関白左大臣」を漠然と二条冬実に比定するのが通説であった。〕。
南朝歌壇における主要歌人の1人であり、『三百番歌合』(残欠本のみ現存)を主催した他、天授元年(1375年)の『五十番歌合』・『五百番歌合』や同2年(1376年)の『百番歌合』・『千首和歌』に詠進し、同じ頃のものと思われる述懐百首・名所五十首の詠がある。『新葉和歌集』には「関白左大臣」として28首が入集した。その多くは温雅平明な二条派の歌風だが、また清新な風情の叙景歌もあり、宗良親王との間で交わした贈答(秋下・331、哀傷・1359)には実生活の感慨が出ている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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