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二条為雄
二条 為雄(にじょう ためお)は鎌倉時代後期の公卿。参議、従二位、右衛門督。歌道家である二条家(二条派)嫡流に生まれる。権大納言二条為氏の二男。当初、兄為世の二男為藤を猶子としていたが、為世の嫡男為道が早世したため、為藤は嫡家を継いだ。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 正嘉3年(1259年)1月6日、叙爵。文応(1260年)2年1月20日、侍従に任ぜられる。文永3年(1266年)4月3日、従五位上に昇叙。文永6年(1269年)3月27日、越前介を兼ねる。文永7年(1270年)閏9月4日、左少将に任ぜられる。文永8年(1271年)1月5日、正五位下に昇叙。文永11年(1274年)2月20日、信濃介を兼ねる。同年3月20日、従四位下に昇叙。文永12年(1275年)4月13日、左少将に還任。建治2年(1276年)12月20日、従四位上に昇叙。弘安元年(1278年)7月17日、左中将に転任。弘安3年(1280年)1月5日、正四位下に昇叙。弘安9年(1286年)閏12月8日、父為氏の喪に服していたが復任。正応2年(1289年)1月13日、加賀権介を兼ねる。正応5年(1292年)6月30日、母の喪に服していたが復任。同年12月30日、内蔵頭に任ぜられる。正応6年(1293年)3月14日、右兵衛督に任ぜられる。永仁2年(1294年)3月27日、右中将に転じ、蔵人頭に補される。同年4月7日、禁色を許される。 永仁3年(1295年)6月23日、従三位に叙せられ右衛門督に任ぜられる。永仁4年(1296年)4月13日、正三位に昇叙。永仁6年(1298年)9月22日、右衛門督を止める。正安2年(1300年)11月2日、参議に任ぜられる〔この時、侍従を兼ねていたか。〕。しかし、年内に参議を辞した〔12月22日に3名が参議に任ぜられていることから、為雄が参議を辞したのは12月22日前後と考えられる。〕。嘉元2年(1304年)3月22日、従二位に昇叙。嘉元3年(1305年)9月17日、出家〔亀山法皇が9月15日に崩御したため。27日には法皇の素服を賜った。〕。法名は覚心。この時51。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二条為雄」の詳細全文を読む
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