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二見明 : ウィキペディア日本語版
千葉泰樹[ちば やすき]
千葉 泰樹(ちば やすき、1910年(明治43年)6月24日 - 1985年(昭和60年)9月18日)は、日本の映画監督。
== 来歴・人物 ==
清国時代の満州長春出身。1928年(昭和3年)に兵庫県立神戸商業学校を卒業後、阪妻立花ユニヴァーサル聨合映画に助監督として入社。翌1929年(昭和4年)に河合映画巣鴨撮影所に移籍して、1930年(昭和5年)に『蒼白き人々』で監督デビューする。
初期は時代劇映画を多く撮り、富国映画社、台湾プロダクションを経て、日活入社。この頃から現代劇も多く手掛けるようになり、更に南旺映画に移ってスラム街に住む日本人職工と在日朝鮮人との交流を描く問題作『煉瓦女工』を手掛ける。この作品は検閲で不許可となり、更に南旺映画解体の原因ともなる(映画は終戦後の1946年(昭和21年)に公開)。
戦時中は大映東京撮影所に所属、1947年(昭和22年)にフリーとなり、日本映画史上初のキスシーンを描いた『或る夜の接吻』を撮って大ヒットとなる。続いて新東宝大河内傳次郎主演の『幸福への招待』と『生きている画像』を作り、松竹京都では美空ひばり主演の『泣きぬれた人形』を、更に東映東京でサラリーマン喜劇のプロトタイプとも呼ぶべき『サラリーマン・目白三平』シリーズ(東宝でもシリーズ作品が作られた)、東宝社長シリーズの第一作『へそくり社長』を成功させてヒットメーカーとしての地位を確立する。1956年(昭和31年)以降は東宝の専属監督として、実在した株の相場師の一代記である『大番』シリーズ、短編シリーズ「ダイヤモンド・シリーズ」の『鬼火』、『下町(ダウンタウン)』、更に戦後の李香蘭を生み出そうとして作り出されたスター・尤敏(ユーミン)主演の『香港の夜』、『ホノルル・東京・香港』など次々とヒット作を量産する。1969年(昭和44年)、森繁久弥主演『水戸黄門漫遊記』撮影中に心臓発作で倒れ、映画監督を引退した。
1965年(昭和40年)開始のテレビ青春学園シリーズ『青春とはなんだ』(東宝製作、日本テレビ系列放送)をはじめとするシリーズでは監修を務め、このシリーズから松森健、児玉進、竹林進、高瀬昌弘、小松幹雄らといった弟子たちを監督デビューさせた。69年の監督引退後も『飛び出せ!青春』や『われら青春!』まで監修を務めている。
その職人的な手堅い演出については、南旺映画消滅の頃から千葉をしばしば起用していた東宝の藤本真澄プロデューサーの信頼も厚く、東宝に移籍してからの千葉は、藤本製作作品に欠かせない監督となった。1964年頃に藤本が東宝の映画監督を野球チームの打順になぞらえた時に、千葉は1軍の1番バッターに挙げられてもいる。ちなみにクリーンナップには、成瀬巳喜男黒澤明稲垣浩が当てられていた。
東宝が社運をかけたヒットシリーズの合間には『二人の息子』や『鬼火』など、現実社会の醜悪な部分に目を向ける容赦のないシリアスドラマを手掛けたことでも知られる。また、成瀬巳喜男復活の契機となった『めし』は、元々千葉が監督するはずの作品だったが、千葉が病気降板したために成瀬に監督が回ったものである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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