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二階堂 行忠(にかいどう ゆきただ、1221年(承久3年) - 1290年12月24日(正応3年11月21日))は、二階堂行盛の子で鎌倉幕府の政所執事。娘に安達長景室。 『吾妻鏡』1222年(貞応元年)9月21日条に「籐民部大夫行盛の妻男子平産す」とあるのが行忠である。 政所執事は代々主に二階堂行盛の子孫が世襲している。最初は二階堂行泰が継ぎ、その後その子行頼、行実が政所執事を継ぐがそれぞれ早死にする。その後政所執事を継いだ行泰の弟の二階堂行綱の家でもその子頼綱が政所執事を継いで2年後に死去したため、政所執事の職には当時評定衆であったその叔父・行忠が63歳という高齢で就任することになる。 行忠の嫡子・行宗は引付衆まで進んだが行忠より早く没しており、行忠の没後は孫の二階堂行貞が22歳で政所執事に就任した。 == 参考文献 == * 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法 事実と神話にみる中世』(吉川弘文館、2000年) ISBN 4-642-07771-5 * 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年) ISBN 4-642-02786-6 == 関連項目 == * 鎌倉時代の人物一覧 * 二階堂氏 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二階堂行忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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