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二階堂 衛守(にかいどう えもり、天保7年(1836年) - 慶応4年7月29日(1868年9月15日))は、幕末の二本松藩士。諱は信近。兄に、「丹羽の鬼鳴海」と称された大谷鳴海がいる。 == 経歴 == 遠祖は鎌倉・室町幕府の政所執事をつとめた二階堂氏。代々二本松藩家老として藩政を司った大谷彦十郎家(家禄1400石)の出身。家老の大谷信義の次男として生まれ、普通、次男以下は他家へ養子に迎えられない限り、一生部屋住みとして終わることが多いが、衛守は藩主の信任厚く、特別に鎌倉時代の姓・二階堂を名乗ることを許された〔一説に、大谷信義に男子が出来なかったため、信義の末の弟衛守を養子に迎えた。しかしその後になって鳴海が生まれたため、大谷家を実子である鳴海に継がせ、衛守には新たに二階堂姓を名乗らせたと言う。〕。 安政6年(1859年)24歳の時、主君のお供として岡山篤次郎の父、岡山持と共に江戸へ出府している。約半年間江戸で過ごした。 戊辰戦争勃発時には既婚しており、妻は上崎氏の娘アサで、身分を超えた恋愛結婚であった。アサは麗人の誉れ高く、この時懐妊中だった。 戊辰戦争時、衛守は須賀川方面で戦っていたが、新政府軍の二本松攻撃を知り、急遽二本松に帰藩。 慶応4年7月29日(1868年9月15日)、二本松少年隊の副隊長〔実際は隊長や副長などの役名は当時はなく、幼年兵世話係、幼年兵指図役と呼ばれていた。〕として隊長の木村銃太郎と共に大壇口に出陣。その戦いで負傷し、城へ戻る事が出来ないと言う銃太郎の介錯を務めた〔自らも負傷した衛守は、銃弾の飛び交うなか三太刀目で首を落としたと言う。〕。急ぎその場に銃太郎の屍を埋め、銃太郎の首級を持って退却した。 衛守率いる残った隊士達は、大隣寺付近まで来た所で新政府軍と遭遇し、全身に銃撃を受け戦死した〔ほぼ即死であった〕。享年33。 墓所は福島県二本松市の大隣寺に存在する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「二階堂衛守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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