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于 静遠(う せいえん)は中華民国、満州国の政治家・軍人。北京政府、奉天派に属し、後に満州国に参加した。字は任樸。父は于沖漢。 == 事績 == スイス陸軍士官学校を卒業。帰国後は奉天派に属し、省立東北大学教授、東三省特別区警察第三総署処長、東三省鉄路護路軍総司令部参謀、東北船政局顧問、東三省特別行政区行政長官公署参議を歴任した〔徐主編(2007)、32頁。〕。 1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)勃発後に、于静遠は奉天自治指導部顧問兼自治訓練処処長に就任した〔。満州国が建国された1932年(大同元年)3月からまもなく、阮振鐸や満州青年連盟の山口重次・小澤開作とともに満州協和党(後の満州国協和会)を結成した〔山室(2004)、199頁。〕。同年夏、満州協和党が改組され、満州国協和会が成立すると、于は同会総務処長となっている〔。1933年12月、駐日公使館参事官に就任した〔「于静遠氏駐日参事官に」『東京朝日新聞』昭和8年(1933年)12月3日〕。1937年(康徳4年)3月3日、満州協和会中央本部長に任ぜられている〔「于氏協和会部長に」『東京朝日新聞』昭和12年(1937年)3月4日〕。 1937年(康徳4年)7月、国務院臨時訂立条約準備委員会委員に任命される〔。翌1938年(康徳5年)2月10日、新京特別市市長に就任した〔「満州国人事異動」『東京朝日新聞』昭和13年(1938年)2月11日夕刊〕。8月、国務院企画委員会一般委員となる〔。1940年(康徳7年)5月16日、産業部大臣に就任した〔「満州国首脳異動 経済大臣ら十九氏更迭」『大阪毎日新聞』昭和15年(1940年)5月17日。〕。同年6月1日、産業部が興農部に改組され、そのまま興農大臣に留まっている〔「満州国異動」『東京朝日新聞』昭和15年(1940年)6月1日。〕。1942年(康徳9年)9月28日、民生部大臣となった〔「共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭」『朝日新聞』昭和17年(1942年)9月29日。〕。1944年(康徳11年)12月17日、経済部大臣に異動している〔「満州国大臣級異動」『朝日新聞』昭和19年(1944年)12月17日。〕。 満州国滅亡後、于静遠はソ連に逮捕、連行される。シベリアで拘束された後、中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収監された。1966年、特赦を受けて釈放された。1969年11月12日、死去。享年72〔王ほか主編(1995)。〕 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「于静遠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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