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五十嵐 文彦(いがらし ふみひこ、1948年11月2日 - )は、日本の政治家。民主党所属の元衆議院議員(4期)、財務副大臣。武蔵野学院大学客員教授。本名は「五十嵐ふみひこ」〔政治活動では「五十嵐文彦」または「いがらし文彦」の表記も使用しており、マスコミ等でも「五十嵐文彦」の表記が用いられることがあるが、戸籍上の氏名表記は「五十嵐ふみひこ」である。〕。 == 人物・来歴 == 警察官の長男として東京都世田谷区に生まれた。他に弟1人。 幼少時、母の病気のため足立区長門町在住の親族の元に里子に出され、足立区立大谷田小学校に入学。小学校2年生の時に養父が他界したため、小学校3年生から実父母の元に戻り、一家で小平市に在住した。小平市立第二小学校卒業後、桐朋中学校・高等学校を経て、東京大学文学部西洋古典学科卒業(古代ギリシャ語、ラテン語、西洋古典文学専攻)。 1973年、時事通信社入社。政治部記者となる。1988年に退社しフリージャーナリストとなり、五十嵐ふみひこ政経研究所を設立、代表となる。 1989年、保守系無所属新人候補の政策集団自由連合旗揚げ参加。1990年、旧東京7区から無所属で立候補し落選。1993年の総選挙で旧埼玉2区から日本新党公認により出馬、初当選、税制委員長を務める。1994年、細川首相の国民福祉税構想に反対して離党し、4月にグループ青雲を結成。同年6月に新党さきがけに合流し、新党さきがけ政調会長代理、連立与党税調座長、衆議院予算委員会理事などを歴任。 1996年、埼玉9区から立候補するため埼玉県入間市に転居。民主党結成に参加し、民主党基本政策の策定に関わる。政調副会長に就任。しかし、直後の総選挙で落選。2000年の総選挙で比例北関東ブロックから当選し、「次の内閣金融相」に就任。2003年の総選挙で3選、「次の内閣経済財政担当相兼金融相」となる。2004年、次の内閣総務相、党郵政改革調査会長となる。しかし、2005年の郵政民営化解散・総選挙で落選した。2007年9月、交通事故に遭ったが入院療養の後に回復した。 2009年9月、第45回衆議院議員総選挙で返り咲き。鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、衆議院災害対策特別委員長に就任。2010年9月、菅直人改造内閣の財務副大臣に就任し、野田内閣でも財務副大臣に留任。2015年に消費税を10%に増税し、最終的に消費税を17%にすることを考えを示した〔将来の消費税「17%」も 五十嵐財務副大臣 47NEWS 2011年11月21日〕。消費税率引き上げの際に所得の少ない人ほど負担感の大きい「逆進性」の対策としては子ども手当の増額を検討することも表明した〔 47NEWS 2011年11月27日〕。 2012年12月、第46回衆議院議員総選挙で落選。2013年4月、第23回参議院議員通常選挙に民主党の比例区の候補者として内定。7月21日に行われた選挙では、個人得票数29,077票(候補者20人中16位)で落選。 参議院選挙後の8月下旬、公職選挙法違反(事前運動、法定外文書頒布)の容疑で書類送検された。公示日より前の2013年5月下旬から6月中旬にかけて、秘書とともに有権者20名に自身への投票を呼びかける法定外文書を郵送した疑い。五十嵐も事実関係を認めた〔民主元財務副大臣を書類送検へ 滋賀県警、参院選で公選法違反容疑 2013年8月7日 MSN産経ニュースWest〕。 五十嵐の参院選転出後、民主党の埼玉県第9区支部長は空席となっていたが、2014年11月、民主党は元読売新聞記者の新人を埼玉県第9区支部長・次期衆院選候補に決定し、五十嵐が民主党候補として埼玉県第9区から衆院選に再立候補する可能性はなくなった。しかしその新支部長も決定から数日後、体調不良を理由に立候補を辞退。民主党と維新の党の選挙協力による候補者調整により、同年12月、維新の党埼玉県第4区支部長が9区に「国替え」し立候補した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五十嵐文彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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