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五十嵐 由人(いがらし よしと、1942年7月7日- )は、日本の実業家。 大和晃三郎の芸名で現在は演歌歌手として活躍。 元アイワールド創業者。五十嵐由人経営塾塾長。 ダイクマに入社後、わずか数年で営業責任者に上り詰め、その後ダイクマがイトーヨーカドーグループに買収されたのを機に、 日本におけるディスカウントストア事業の先駆けとして、流通業界の雄として、アイワールドを設立。 一日の来店数25万人。ロールスロイスからトイレットペーパーまでの商品ラインナップ。 映画館から結婚式場までが同一店舗内にあるという、当時としては珍しい総合複合施設として日本各地に出店する。 HI(ホームインプルーブメント)連合として、共同事業グループを立ち上げ、年商売上4000億円の旗艦店として、年商400億円の売上を上げるほどディスカウントストアを一代で築きあげる。 一時はテレビ宮尾ススムの「日本の社長」などにも取り上げられ、有名社長として全国に名を轟かせる。 また「アイワールドが出店すると、半径10キロの物価が下がる」と言われるほど地域の価格破壊者として名を馳せた。 バブル期の過大投資による有利子負債の圧迫によって、経営難に陥り、民事再生手続きを申請。わずか三ヶ月で民事再生を成功させる。 その後、アイワールドの社長を退任し、演歌歌手大和晃三郎に転身。アイワールドは2015年に店舗を閉鎖している。 == 人物・来歴 == *昭和17年7月7日(1942年) 福島県会津の農家の長男として生まれる〔相模経済新聞 2010年連載記事より〕 *福島県立農業高校を2年で中退、「商人』 を夢見て上京。〔相模経済新聞 2010年連載記事より〕 *商店資金を稼ぐため、18才で独立。神奈川県林業の事業主となる。〔相模経済新聞 2010年連載記事より〕 *ディスカウントストアダイクマの社長に出会い、昭和40年に念願の小売業入社。27才で営業部長に就任。バラエティ部門を任され、ディスカウントストア販売形態の原型を創る。〔相模経済新聞 2010年連載記事より〕 *昭和50年(1975年)2月7日 神奈川県に「エンジョイライフショッピングセンター」株式会社アイワールドを設立し、社長に就任する。〔相模経済新聞 2010年連載記事より〕 *アイワールドではわずか50坪の店で初年度に5億円を売り上げ、坪効率1千万円を達成させる。〔相模経済新聞 2010年連載記事より〕 *創業2年目には相模原店をオープン。20億円を売上げる。その後も業績を伸ばし、ホームセンター・ディスカウンター時代の先駆者として全国から見学者が殺到した。〔相模経済新聞 2011年連載記事より〕 *6年目で100億円の売り上げを達成し、快進撃を続ける。来場者一日25万人の記録を達成。〔相模経済新聞 2010年連載記事より〕 *全国から新しい流通を学ぶ門下生が殺到し、無償で教育指導を行う。その後、全国にディスカウント形態のホームセンターが出店しはじめる。〔相模経済新聞 2011年連載記事より〕 *HI(ホームインプルーブメント)連合を立ち上げ、その基幹店となって共同仕入れ機構を作り、台湾韓国中国など近隣諸国から直輸入を開始して全国の連合店と共同仕入れを行った。 *1985年には創業から10年で年商は300億円となっていた。〔相模経済新聞 2011年連載記事より〕 *ロールスロイスからたまごっちまで販売し、次々と画期的な企画を連発。業界の注目を集めながら世界の一流品・ブランド品・高級品を集め、相模原に9万㎡の当時としては先がけとなる巨大店舗、さらには東大和市にも同コンセプトによる大型店舗をオープンさせ、時代の寵児として業界の話題をさらい続けた。 *グループ会社を合わせて400億円に及ぶ売り上げを達成。〔相模経済新聞 2011年連載記事より〕 *過大投資が命取りとなり、返済に困窮。2002年7月22日には民事再生に突入。〔相模経済新聞 2012年連載記事より〕 *2002年 個人の財産放棄。引責辞任。史上最短で民事再生。 *2002年 生きる研究所(五十嵐経営塾)を設立 講演会活動開始 *2010年 大和晃三郎の芸名で5歳の頃から念願であった演歌歌手としてデビュー 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五十嵐由人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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