|
五十戸(さと、ごじっこ)は、7世紀中頃から後半の日本にあった地方統治の組織で、評の下、戸の上にあった。50の戸をまとめたもので、その長を五十戸造といった。683年頃に里に改称した。 == 文献史料と木簡 == 『日本書紀』によれば、孝徳天皇が大化2年(646年)1月1日に出した大化改新の詔には、五十戸を一里とし、里に里長を置くとあった。また、従来三十戸から一人出していた仕丁を五十戸から一人にするともある。これらの五十戸は五十の戸という意味で、組織単位としての五十戸は『日本書紀』を通じて見えない。詔の文は後の養老律令の文と似通っており、書紀の編者が引き写した可能性が高い〔鐘江宏文「七世紀の地方社会と木簡」。〕。書紀には過去のことを編纂当時の用語で書いた箇所が他にもあり、ここも五十戸と書かれるべきところを里に改めたのである。 『万葉集』には五十戸と書いて「さと」と読ませる箇所が3つある〔岸俊男「「白髪部五十戸」の貢進物付札」680頁。〕。五十戸、五十戸長とあるほか、山上憶良の貧窮問答歌に「五十戸良」とあるのが「さとおさ」、すなわち里長とされる。五十戸が廃止され里があった時代に書かれたもので、前代の制度が文学に残したあとである。 五十戸制を発見させ、確証したのは1970年代以降に多数出土した木簡であった。主に都に貢進物を送り出すときの負担者・差出者を記す所に五十戸があり、評の後、人名の前に位置している。後の時代に評・郡の後、人名の前に位置するのは里であり、木簡では五十戸と里が時期的に明確に分かれることから、五十戸が里の前身であることが確証された。 == 編成と役割 == 五十戸制の時代には、複数の五十戸をまとめて評を置き、複数の評をまとめて国(令制国)を置いた。 五十戸は、その後身である里と同じく、人間集団である戸を五十まとめて指定したもので、原理的には地区ではなく人間集団である〔『評制下荷札木簡集成』12頁。〕。行政の便宜のために五十という数で区切って作り出したものである〔渡邊久雄「律令の中の五十戸一里の制度について」。〕。しかし戸についても行政が戸籍編製のために人工的に割り振って作ったものではないのではという疑いがあり、戸を五十集めて人工的に五十戸・里を作り出すのと、五十戸・里を五十に分けて人工的に戸を作り出すのと、両方があり得たようである〔『国史大事典』第14巻514頁、「里」。〕。 古代の日本には村・邑と書いてムラと読んだものがあり、行政の認定なしに存在した自然村落であった。加えて、郷・里と書いてサトと読んだものの中にも行政上の郷・里と異なる自然村落があったようである〔渡邊久雄「律令の中の五十戸一里の制度について」47-50頁。〕。五十戸と書いて無理矢理サトと読ませた背景にも、五十戸での分け方と重なったり異なったりする地元のサトの存在が考えられる。 出土した荷札木簡の差し出し部分には、評と五十戸が書いてあるものと、評・五十戸に続けて人名が書いてあるものがあり、後の郡・里と基本的に同じである。五十戸の役割は、律令制の里と同じく、行政の末端にあって徴税と労役の徴発を行うことにあった〔渡邊久雄「律令の中の五十戸一里の制度について」47頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五十戸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|