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後套進攻作戦[こうとうしんこうさくせん]
後套進攻作戦(こうとうしんこうさくせん)とは、日中戦争中の1940年(昭和15年)1月から3月までの間、日本の駐蒙軍により二次に亘って行われた、綏遠省後套地区(五原地方)への進攻作戦である。当初の作戦秘匿名は八号作戦。別名の五原作戦(ごげんさくせん)でも知られる。 == 背景 == 1939年(昭和14年)12月、冬季攻勢の一環として傅作義将軍の指揮する第35軍が、騎兵集団司令部の駐屯する包頭を襲撃した。傅作義軍は日本軍の反撃で退却したが、1940年1月には再び包頭の攻撃を企図して、主力軍(約3万)の拠点である五原周辺で活動を活発化させた。 駐蒙軍は、後套地区〔後套地区とは、黄河南岸地区(オルドス地方)を前套地区と呼ぶのに対比した用語で、黄河北岸の五原地方を意味する。〕への攻勢をとって傅作義軍の根拠地を撃砕する作戦の許可を上級司令部に求めた。五原は、駐蒙軍に課せられた作戦制限線の西方300キロにあり、駐蒙軍はかねてから攻略を希望していた。大本営は作戦を認可し、北支那方面軍は、中国軍を撃破した後は作戦制限線に撤退するよう命令した。しかし、第26師団長・黒田重徳中将と騎兵集団長・小島吉蔵中将は、五原の永久占領を希望する意見書を提出するなど、軍司令部の中では永久占領を主張する田中新一参謀長らと、それを不可とする岡部直三郎軍司令官との間で意見の対立が表面化していた。〔『支那事変陸軍作戦(3)昭和十六年十二月まで』 95-97頁。〕
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Wuyuan 」があります。
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