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五島 昇(ごとう のぼる、1916年(大正5年)8月21日 - 1989年(平成元年)3月20日)は、日本の実業家。東京急行電鉄社長・会長。日本商工会議所会頭〔経済界秘蔵フィルムで綴る20世紀の偉人列伝 第5回 五島昇(1916年―1989年) - 経済界オンライン 〕。五島慶太の長男。 == 来歴・人物 == 東京・駿河台に五島慶太、万千代(旧姓久米)の長男として生まれた〔。学習院初等科、中等科、高等科を経て東京帝国大学経済学部を卒業し、東京芝浦電気に入社。学生時代は野球部に籍を置き捕手としてならしたが中途退部の後ゴルフ部へ転向。戦時中は、陸軍大尉として軍務に就く。1945年(昭和20年)東京急行電鉄に入社。1948年(昭和23年)に新発足した東急横浜製作所(現・総合車両製作所)、京浜急行電鉄の取締役となり、1954年(昭和29年)、東急社長に就任。その他、死去するまで、グループ各社の会長もしくは相談役、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)、小田急電鉄の取締役の他、松竹、歌舞伎座の取締役相談役なども歴任した〔。 父の慶太が強引な企業買収により事業拡大を目指したのに対し、昇は反対の事業展開を目指す。慶太死去の際、東急は東洋精糖を買収工作中で、激しい企業間紛争となっていたが、昇はすぐさま撤退に着手し慶太死去のわずか27日後に完全撤退した。さらに傘下の自動車メーカー東急くろがね工業(旧・日本内燃機製造、現・日産工機)を清算、東映の分離など、拡大した東急グループを再編し、本業である鉄道業・運輸業と関連性の高い事業に「選択と集中」を行った。一方で、本業である鉄道経営については伊豆急行の建設や田園都市線の延伸といった鉄道敷設を行うほか、沿線のリゾートや宅地開発に関しては父慶太が立案した通りに忠実にやり遂げた。 グループ経営の方向性に合わせ、航空事業(日本国内航空→東亜国内航空(後の日本エアシステム、現・日本航空))やホテル事業、リゾート開発等の拡大を図り、最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を数えた〔。 財界活動は昭和30年代初めに東急電鉄が文化放送の株式を譲り受けたのを切っ掛けとして財界四天王の一角・水野成夫との付き合いを始めてからだが〔#履歴書26、204-211頁。〕、本格的な活動は1973年(昭和48年)、永野重雄日本商工会議所会頭から、法律で定数4人以内と定められた東京商工会議所の副会頭枠を破り、員外副会頭に抜擢され、永野の後継者として据えられてからである〔〔#ビッグボーイ、201-206頁。〕〔#菊池、12-14頁。〕。永野は石坂泰三から五島を託され〔、五島は11年間永野に仕えた〔〔#松井、212-218頁。〕〔#辻、28頁。〕。特に永野から対外経済協力会議全般を任され、海外の政財界人に深い人脈が生まれ、東急グループの事業拡大に寄与した〔。1984年(昭和59年)、永野の後を受け、日本商工会議所会頭に就任〔〔〔【時代のリーダー】五島昇・日商会頭:日経ビジネスオンライン 〕。永野→五島へのバトンタッチは、永野と小山五郎、瀬島龍三、大槻文平の4人の話し合いで円滑に行われた〔#松井、223-225頁。〕。 40年来の友人である「中曽根康弘を総理にする会」を作り支援〔#ビッグボーイ、226-237頁。〕〔#新井、44-59頁。〕。中曽根の総理就任後は瀬島や渡辺恒雄らと共にブレーンとして中曽根政権を支えた〔〔〔#菊池、17-22頁。〕。新行革審の会長ポストを巡る争いや〔、売上税導入問題など〔、激務により体調を崩し1987年(昭和62年)、日本商工会議所会頭会長に退く。 また、ファッションに敏感であり109の出店や〔#ビッグボーイ、216-217頁。〕田園都市線たまプラーザ駅の命名を行った。 自らを振り返る文献をほとんど残さなかった。1989年3月より、日本経済新聞において『私の履歴書』で事実上の自伝を執筆するが、連載中の3月20日に72歳にて死去(以後は遺稿扱い)。戒名は『昇徳院殿英譽道淨生洪勲大居士』。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五島昇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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