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五相会議(ごしょうかいぎ)とは、昭和時代前期の日本において、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣の5閣僚によって開催された会議。 主に陸軍・海軍の軍事行動について協議され、これを実現する財政・外交政策のために蔵相、外相も出席した。議案の必要に応じて企画院総裁なども出席したことがある。 == 年表(主な五相会議) == * 1933年10月3日 - 初の五相会議が開催される。 * 1936年8月7日 - 大陸・南方への進出と軍備充実を定めた「国策の基準」を決定した。 * 同年8月 - 「第二次北支処理要綱」を決定した。「一は蘇国の侵攻寇に備へ、一は日満支三国提携共助実現の基礎たらしむる」「北支五省」(河北、チャハル、綏遠、山東、山西)を日本の勢力下におく。〔遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 136ページ〕 * 1937年7月11日 - 陸相の、「威力の顕示」による「支那側の謝罪及保障確保」を理由とした内地三個師団派兵等の提案が合意された。盧溝橋事件参照。 * 1938年6月10日(閣議) - 五相会議を正式な国策協議機関とする。 * 1938年7月 - 防共協定強化問題に関し、ドイツと対ソ軍事同盟締結の方針を決定した。 * 1938年12月6日 - 「猶太人対策要綱」を決定した。河豚計画参照。 * 1939年1月23日 - 三国同盟案に関して、日独伊の相互武力援助はソ連のみを対象とし、第三国は状況によって対象にするという妥協方針を決定した。 * 1939年3月22日 - 「独伊両国が英米と開戦した場合、日本は原則として支持するが、現在および近い将来に参戦することは難しい」という結論を出した。 * 1941年10月12日 - 近衛首相、豊田外相、東条陸相、及川海相、鈴木企画院総裁は戦争の是非について会談、陸相は支那からの撤兵に強く反対した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「五相会議」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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