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五藤浄基 : ウィキペディア日本語版
五藤浄基[ごとう きよもと]

五藤 浄基(ごとう きよもと、生年不詳 - 永禄6年4月21日1563年5月13日))は、戦国時代武将。正式には藤原光方五藤三郎左衛門浄基、前名は豊光、為友。
橘諸兄の末裔とされ、そこより継承して記載されている家系譜が現在、安芸市立歴史民俗資料館に存在する。藤原光基五藤平太郎の子。長男は五藤為浄、二男は安芸城主五藤為重、妻は戦国大名越前領主朝倉の娘である室堀江堀江景忠などと同住所であった)の娘。
== 生涯 ==
五藤平太郎の子として誕生。
岩倉織田氏の家老・山内盛豊尾張国郷戸の渡船にて会って意気投合し、家に数日滞在巨礼を執り近習奉仕する。五藤氏の中で最初に山内氏土佐山内氏)に仕えた。永禄2年(1559年)3月、岩倉城落城のとき盛豊が戦死すると、その子・一豊に供し母や弟妹と共に苅安賀城浅井政貞(新八郎)の許に身を寄せた。これは浄基の妻が越前朝倉氏の孫だったため、妻の縁故によるものかと考えられる。
永禄6年(1563年)、尾張国葉栗郡黒田(愛知県一宮市黒田)にて病死。安芸城近くにある安芸川北横山墓地に墓がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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