|
井上 光貞(いのうえ みつさだ、1917年(大正6年)9月19日 - 1983年(昭和58年)2月27日)は、日本の歴史学者。東京大学名誉教授。国立歴史民俗博物館初代館長。紫綬褒章受章者。文学博士。専門は日本古代史(上代日本史)。井上馨と桂太郎の孫に当たる。 == 人物 == 古代日本、特に浄土教を中心とした仏教思想史、律令制以前の国家と天皇の起源に関する問題、律令研究を通じての「固有法」から「律令法」への変遷をテーマに研究した。後年は、『日本書紀』や律令等の古典籍の注釈を専らとし、特に律令の注釈は石母田正らと編集した『日本思想大系 3 律令』(岩波書店)に詳しい。 井上の歴史学の方向は、恩師坂本太郎が、構築した実証主義的アカデミズム歴史学を継承したもので、日本史学史上、坂本の後継者と位置づけられている。またマックス・ヴェーバーの理論や、津田左右吉の記紀批判を継承して、律令制以前の政治社会組織研究の基礎を形成した。 加えて研究の土台となる学問的素養の醸成には、以外の多彩な指導者との出会いが大きな影響を与えている。大学入学後、父親の紹介により美術史家の児島喜久雄の謦咳に接する機会を得たのもその1つ。児島は、坂本などが見向きもしなかった歴史哲学の素養を、史学をやる上で必須のものと考えており、井上に対してドイツ語の関連原書を与えて読ませた。井上は、後年に研究自叙伝『わたくしの古代史学』で、児島から受けた指導について触れ、哲学的・世界史的な視野をもって日本史研究をすることに役立ったと述べている。 大学院に進学すると「奈良遷都以前の社会と仏教」を研究課題に選び、仏教思想史の研究を志す。その際の指導教官には、国史学科で中世思想史を担当していた平泉澄ではなく、倫理学教室の主任であった和辻哲郎を選ぶ。これについて井上は、平泉の学問的業績は認めつつ「右翼的臭味」を帯びたその歴史観を敬遠したためと、西洋趣味の家風に育ったため、少々野暮に過ぎる国史学科の日本趣味が合わなかったと自伝に記している。 さらに、日本史を世界史的視野で捉えようとする井上の歴史観の形成に、後年のインド・アメリカ訪問の際の経験も大きな影響を与えた。以上のような多彩かつ多角的視野に立脚した学問的素養の上に、井上は確実な論証を以て史学研究をすすめていった。 研究や古典籍の注釈の他に、教科書や概説書の執筆も数多く手掛けた。1949年に大久保利謙・児玉幸多とともに『新制中等日本史』(吉川弘文館)を執筆し、1951年には、いわゆる「山川『日本史』」のおこりである『日本史』(高校教科書)を笠原一男らと執筆した。また、竹内理三・児玉幸多らとともに編集企画した中央公論社版『日本の歴史』は、歴史分野としては空前の40万部のベストセラーとなった。約半世紀を経て中公文庫(新版)で重刷されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井上光貞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|