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井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。 == 生涯 == === 長州藩士時代 === 天保14年(1843年)、長州藩士・井上勝行(1807年 - 1893年)の3男として萩城下に生まれる。幼名は卯八と名付けられたが、これは干支が癸卯で8月生まれにちなんだためである。父は大身200石の藩士で、母久里子は同じ長州藩士田坂家の出身だが、弘化元年12月22日(1845年1月29日)に卯八が1歳の時に死別している。また、兄の井上勝一(1831年 - 1886年)は後に父の家督を継承、弟の赤川雄三(1850年 - 1904年)と湯浅光正(? - 1870年)はそれぞれ他家に養子へ出されたが、いずれも卯八に先立ち亡くなっている〔『平成新修旧華族家系大成』上巻、P187、老川、P210。〕。 天保19年(1848年)に野村作兵衛の養嗣子となり野村弥吉と改名し藩校明倫館で勉強、開明派で蘭学重視の父に従い西洋学を学ぶことを志す。嘉永6年(1853年)の黒船来航に伴う相模警備に江戸幕府から長州藩が命令され、安政2年(1855年)に沿岸警備に駆り出された父と共に宮田(現在の神奈川県横須賀市)へ赴任、そこで伊藤博文と出会い親交を結ぶ。翌3年(1856年)に萩へ戻った後は安政5年(1858年)に藩命で長崎へ遊学、再会した伊藤と共に1年間洋学兵法を学び取ったが、それだけで飽き足らず、帰郷から間もない安政6年(1859年)に藩命で江戸の蕃書調所へ入学、航海術を中心に勉強した。しかしまだ満足出来なかった弥吉は、万延元年(1860年)に船で箱館へ向かい武田斐三郎の塾を訪問、航海術と英語を取得したが、翌文久元年(1861年)に養父の希望で萩へ戻ることになった。それでも学問への意欲は尽きず、養父を説得して文久2年(1862年)に再び江戸に到着、英学修業のため横浜と江戸を往復しつつ外国留学を考えるようになっていった。 文久3年(1863年)3月10日にジャーディン・マセソン商会から長州藩が購入した船・癸亥丸の船長に任命され、測量方の山尾庸三らと共に横浜から京都まで航行、23日に兵庫港へ到着した。そこに藩家老・周布政之助の工作で藩主毛利敬親から外国旅行を命じられ、5月12日に脱藩。イギリス総領事による斡旋の下、後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれることとなる井上馨・山尾・遠藤謹助・伊藤とジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)に密航し渡英、上海でホワイト・アッダー号に乗り換え長期間船旅を過ごした末に10月にロンドンへ到着、明治元年(1868年)までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて鉱山技術・鉄道技術などを学ぶ。 途中、元治元年(1864年)に井上と伊藤が帰国、翌慶応元年(1865年)に薩摩藩第一次英国留学生と出会い日本人同士の交流を喜んだのもつかの間、藩からの費用が少なくなり困窮、慶応2年(1866年)に遠藤も病気の悪化で帰国するなど苦境が続く中で明治元年9月に無事卒業を果たした。同年、木戸孝允の「母国で技術を役立てるように」との再三の要請により11月に山尾と共に帰国。長州藩へ戻り実家と復縁し、父の名前から1字取り井上勝と改名、長州藩から鉱山管理の仕事を任されていたが、明治2年(1869年)に木戸の呼びかけに応じ新政府に出仕、10月に大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正となり(当時大蔵省・民部省は合併していた)、先に大蔵省へ出仕していた伊藤に仕え近代事業に携わることになる〔犬塚、P53 - P66、P70 - P72、P85 - P94、P97 - P122、P211 - P213、P231 - P233、中村、P18 - P21、P242 - P243、老川、P1 - P33。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井上勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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