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井上早苗 : ウィキペディア日本語版
井上早苗[いのうえ さなえ]

井上 早苗いのうえ さなえ, 旧姓 岡田 早苗 おかだ さなえ, 1913年大正2年)5月31日 - 2011年平成23年)7月1日)は、日本の女子テニス選手。
== 人物 ==
東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)出身。東京府立第二高女(現竹早高校)卒業。日本における「女子テニス」の草分けとして、1930年代から1950年代まで長く活動した。岡田は佐藤次郎の婚約者として知られたが、佐藤の投身自殺のショックから立ち直り、1936年の「日米国際庭球戦」参加や全日本テニス選手権女子ダブルス6勝などの戦績を残した。
岡田は両親がテニス愛好家だったことから、幼年時代からテニスに親しんだ。最初は軟式テニスを始め、東京府立第二高女在学中に硬式に転向する。1933年から1935年にかけて、岡田は全日本テニス選手権で3年連続の女子シングルス準優勝者になり、当時の日本女子テニス界で林美喜子に続くナンバー2の位置につけていた。1933年秋に「テニスファン」という月刊雑誌が創刊され、岡田は雑誌の女性記者に選ばれた。岡田が佐藤次郎と交際したのは、その時期にあたる。
1933年11月の全日本テニス選手権で、佐藤は岡田の試合でボールボーイ(球拾い)を務め、それを契機に岡田への好意を深めて、1934年2月9日に東京・銀座4丁目の喫茶店「富士アイス」で岡田との婚約を発表した。ところが、2ヶ月後の4月5日、佐藤はデビスカップの遠征中にマラッカ海峡で投身自殺してしまった。佐藤が書き残した遺書には、岡田早苗に宛てたものもあった。岡田は4月6日、勤務先のテニスファン社で婚約者の悲報に接する。佐藤の投身自殺を報じた新聞報道の中には「岡田嬢悲嘆」に関する記事も掲載された。
佐藤の投身自殺から2年後、岡田は1936年10月に読売新聞社主催の「日米国際庭球戦」に参加した。アメリカから3人のプロテニス選手が来日し、ビル・チルデンエルスワース・バインズに加えて、女子プロ選手のジェーン・シャープが来日した。シャープの対戦相手として岡田が選ばれたが、当時のテニス界では、プロ選手と対戦したら必然的にプロとみなされ、アマチュア選手によるトーナメントへの出場資格を失うことになった。そのため、シャープとの対戦を引き受けた岡田は「日本最初の女子プロテニス選手」と呼ばれるようになる。プロ選手の一行は東京大阪名古屋の3都市を回り、岡田はシャープに4勝5敗の戦績を挙げた。その後結婚して「井上早苗」と改めた。出産と第2次世界大戦の終戦を経て、井上は全日本テニス選手権のダブルスに再挑戦を始めた。
1946年の全日本選手権女子ダブルスで、井上は大浦直子とコンビを組み、11年ぶり3度目の優勝を果たす。1947年には山川道子と組んだ女子ダブルスと、鵜原謙造と組んだ混合ダブルスで優勝し、全日本2冠を獲得した。その後1956年1959年の2度、宮城黎子と組んで優勝している。最後の女子ダブルス優勝時には、井上は46歳の高齢を迎えていた。四半世紀にわたって日本女子テニスをリードした井上は、引退後日本テニス協会顧問、「日本女子テニス連盟」会長(のち名誉会長)を務めた。
2003年1月、東京都新宿区市谷で余生を送る〔1936 日米国際庭球戦 - 思い出に残るあの試合 日本テニス協会オフィシャルサイト文中参照〕井上早苗は日本テニス協会によるインタビュー・シリーズ「思い出に残るあの試合」の取材に応じ、1936年の日米国際庭球戦の思い出を語った。インタビュー時の井上は、間もなく90歳の誕生日を迎える直前であったが、高齢でも元気にテニスの練習を続けてきたという。70年前の出来事になった佐藤との婚約については、さらりと語ったのみである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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