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井上 真二(いのうえ しんじ、1966年7月12日 - )は、元プロ野球選手。ポジションは外野手。右投右打。 ==来歴・人物== 熊本県立熊本工業高等学校卒業。1984年ドラフト5位で巨人に入団。プロ2年目の1986年と3年目の1987年に2年連続でイースタン・リーグの本塁打王に輝くなど大器の片鱗を見せる。 5年目の1989年5月3日に阪神タイガースの池田親興から代打でプロ入り初本塁打を放つ。それをきっかけにレギュラーに定着し、6月半ばまで打率は4割を超え、2か月足らずで11本塁打を放って一時期新人王の最有力候補に挙げられる。同じくこの年に台頭した2年後輩の緒方耕一と共に「熊工コンビ」と呼ばれ人気を集め、同年のオールスターゲームにも出場した。しかし6月下旬あたりから大きく失速し、8月中旬には緒方にライトのレギュラーを奪われ、守備固めや代打での起用が中心となった(8月の成績は32打数7安打.219、0本塁打)。また、8月31日の試合で阪神マット・キーオから左側頭部にデッドボールを受け、その影響で9月6日に一軍登録を抹消されるが同月中に復帰を果たす。最終的に打率.298、12本塁打、38打点と自己最高の成績を残すが、新人王はヤクルトスワローズの笘篠賢治に奪われた。 1990年は、それぞれレフトとセンターのレギュラーに元々定着していた原辰徳とクロマティのほか、吉村禎章の復活や左投手対策で獲得した西岡良洋、新外国人マイク・ブラウンの加入や内外野兼任の緒方耕一の存在、大森剛の入団など、外野手の層がかなり厚くなったことから一軍定着もままならなくなる。それでも、8月には、2試合にまたがって3打数連続本塁打を記録するなど、潜在能力は前年の活躍を裏付けるものを持っていたが、突発的な活躍も前年のままで、結局その3本塁打に終わる。 その後は二軍では活躍するものの、一軍では8年間で1本塁打と振るわず、1998年を最後に現役を引退した。一軍定着時の活躍が鮮烈だったため、一部では頭部への死球をきっかけに打てなくなったと思われている節がある〔徳光和夫著『徳光和夫の巨人軍スカウティングレポート1999』では、あの死球がなければ今でも5番を打っていたのではないかと書かれている。〕。二軍での通算125本塁打は現在でもイースタン・リーグ記録である。 引退後は巨人で球団職員を経た後、2001年から二軍で打撃コーチや外野守備コーチを歴任、2004年と2005年は一軍打撃コーチとなり、2006年に再び二軍打撃コーチとなった。2007年からは巨人のスカウトを務めていたが〔週刊ベースボール2014年3月24日号 P20〕、2016年からまた二軍打撃コーチに就任することとなった〔来季の一、二軍コーチングスタッフについて - 読売巨人軍公式サイト(2015年10月27日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井上真二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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