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井上 親一郎(いのうえ しんいちろう、1918年9月8日 - )は、鳥取県米子市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、60ページ〕出身の元プロ野球選手、高校野球監督。右投右打で、ポジションは捕手。 == 来歴・人物 == 米子中では5年次の1935年の甲子園に捕手として春夏連続出場したが、いずれも初戦敗退に終わる。中学時代バッテリーを組んでいたのが清水秀雄である〔。 卒業後慶應義塾大学野球部では、東京六大学で何度か首位打者争いを展開した。大学時代は中学の後輩である成田啓二の球を受けた〔。リーグ通算61試合出場、190打数45安打、打率.237、1本塁打。 卒業後は帝王鉱業開発、大阪鉄道管理局とノンプロでプレー。終戦後は、1947年のみ母校・米子中で監督を務めた後、地元の米子鉄道管理局へ。 そして1950年、国鉄球団結成に伴って入団、初代主将を務めた〔。すでにベテランの域であり、代打で登場することが多かった。また、若き金田正一の上達を助けた。 引退後は高校野球解説者として地元でテレビ、ラジオに登場、わかりやすい解説で親しまれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井上親一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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