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井上 順(いのうえ じゅん、本名同じ、1947年2月21日 - )は、日本のタレント、歌手、俳優、コメディアンである。旧芸名は、井上 順之(いのうえ じゅんじ)。 == 来歴 == * 東京都渋谷区の代々木公園前で馬場を営む家の3人兄弟の末子として生まれ、麻布龍土町(現在の港区六本木7丁目)で育った。祖父は日本に初めて競馬を持ちこんだ人物で、父親は馬場専属の獣医師〔読売新聞、2015年7月9日 〕。 * 1961年、13歳の時に、峰岸徹、大原麗子、田辺靖雄、ジェリー藤尾などもいた「六本木野獣会」に加入する。後にジャガーズの前身バンドにも籍を置いた。峰岸からは実弟のように可愛がられ、デビュー前から峰岸が亡くなるまで、食事や遊びなどにしばしば誘われた〔峰岸が逝去した際の追悼インタビューにて、本人談。〕。 * 1963年(昭和38年)、成城高等学校在学中である16歳の時に、鑑賞したザ・スパイダースのライブに触発され、その場で自ら門を叩いてグループに加入を申し出る。ほどなくして、グループサウンズ時代の最年少メンバーとして堺正章と共にツインヴォーカルとパーカッション(「サイドタンバリン」とネタにされてもいた)を担当。コンサートでは、堺と共にMCも担当した。後の『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)などで見せる軽妙なトーク技術と気さくなキャラクターはこの時期に研鑽されたもので、現在の芸風の基盤を作り上げた。 * 1970年(昭和45年)のスパイダース解散後は、芸名を「井上順之(じゅんじ)」と改める。しかし、痔になったため、「『じ』は良くない」と、1973年に芸名を「順」に戻した。 * 1971年、『昨日・今日・明日』で歌手としてソロデビュー。歌手を本業としながら、俳優業・司会業にも進出する。「ジャーニー!」「ピース!」など数々の流行語を生み出し、コンスタントにシングルのリリースも続けた。『ラブラブショー』(フジテレビ)での共演をきっかけとして、当時資生堂の人気モデルだった青木エミと大恋愛の末に結婚するが、1982年(昭和57年)夏に離婚。以後、独身を通している。 * 『芸能人野球大会』(フジテレビ)では、「堺とのデッドボールのぶつけ合い」「乱闘と見せかけて二人で社交ダンスを踊りだす」などの秀逸なネタが例年見られた。スパイダース解散後も、盟友・堺とは数多くの仕事を共にしており、近年ではジョイントコンサートも開催している。 * 1976年から1985年まで『夜のヒットスタジオ』3代目男性司会者を担当。同番組の歴代男性司会者としては最長の9年半に渡り司会を務める。干支が一回り上の芳村真理との絶妙なコンビネーションで、番組黄金期を築いた。「茶化し」に徹しつつエンターテイナーぶりをのぞかせる井上の司会ぶりは、当時学生だった三谷幸喜にも大きな影響を与え、三谷の映画監督デビュー作『ラヂオの時間』では「『夜ヒット』の井上順」を髣髴とさせるキャラクターが登場。この役柄を井上本人が演じた。 * 俳優としては石井ふく子プロデュース作品に頻繁に起用され、『ありがとう』『渡る世間は鬼ばかり』などに出演。 * 2002年に放送を開始したNHK Eテレの教育番組『ピタゴラスイッチ』では、「テレビのジョン」という犬型ロボット役で声優を担当。『みんなのうた』で歌った楽曲「テトペッテンソン」はインパクトのある歌詞が好評を博し、子どもたちの間で人気となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井上順」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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