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井伊直継 : ウィキペディア日本語版
井伊直勝[いいただししょう]

井伊 直勝(いい なおかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての譜代大名徳川氏の家臣。近江佐和山藩主、のちに上野安中藩初代藩主。直勝系井伊氏初代。
== 生涯 ==
徳川四天王の一人・井伊直政の長男として遠江国浜松に生まれる。幼名は万千代。初名は直継、のちに直勝。兵部少輔。異母弟に直孝がいる。
慶長7年(1602年)、父・直政が関ヶ原の戦いのときの鉄砲傷が原因で病死すると、その跡を継いで佐和山藩主となり、名を直継と改めた。
慶長8年(1603年)から徳川家康の命を受け、西国に向けての防衛拠点としての彦根城の築城にとりかかり、慶長11年(1606年)これが完成すると佐和山城から彦根城へ居城を移した。ただし、直継は実質的に彦根藩主の地位にはあったが、家督の継承者としては分家の初代として本家の歴代当主としては数えない〔『井伊家と彦根藩』(彦根城博物館、2009年)〕。
若年のため暫くは家老が政務を代行していたが、元々個性の強い者が多かった配下の家臣達がまとまらず、また徳川家の直臣から直政の寄騎となり家康の命でそのまま井伊家の家臣とされた「付人」と称された重臣の中には直継と合わず、機会があれば再び旗本(徳川家の直臣)に戻りたいと願う者もいたため、家中で内部対立が深刻化した。家康は木俣守勝鈴木重好の両名を家老として直継を補佐させる方針であったが、慶長10年(1605年)には付人の椋原正直西郷重員を中心とした家臣団が鈴木重好・重辰父子の不正を家康に直接告発したために重好が追放され(子の重辰は椋原・西郷らと互いに起請文を取り交わして和解)、慶長15年(1610年)に木俣守勝が亡くなると、直継は家康の了承を得て守勝の養子・守安ではなく鈴木重辰と椋原正直を家老に任じたものの、父子揃って家中の人望を得ていた木俣家の排除は家臣達を動揺させた(異母弟の直孝も重臣の和田浄閑に充ててこのことに不満を述べた書状を残っている)〔小宮山敏和「近世初期における譜代大名〈家中〉の成立」『譜代大名の創出と幕藩体制』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-03468-5〕。また生来病弱であったため軍役にも参戦しないことがあったという説もある。そのため憂慮した家康が事態の収拾を図り、井伊谷以来の家臣は直継に、武田氏の遺臣などは異母弟・直孝に配属された。また井伊家の領地のうち彦根は直孝、上野国安中は直継の領有とされた。
慶長19年(1614年)、大坂の陣が始まると、愚鈍であったため江戸に押し込められていた直継〔「当代記」慶長19年12月4日条〕の名代として、家康は直孝を井伊軍の大将に指名し、直継は安中の関所警護を務めた。大坂冬の陣後、家康は期待に応えた働きを見せた直孝に正式に井伊氏の家督を継がせ、直継は上野国安中藩3万石を分知された。このときに直継から直勝と名を改めた。井伊家の家督の交替は公式には直継の病弱を理由としているものの、当時の井伊家(彦根藩)は家康の直接統制下に置かれていたとされ、直継(直勝)・直孝間の家臣団の分割についても家康の命を受けた幕府年寄(老中)が決定したとされている。このため、実際には直継と付人の対立などで家康から家中を統制する「器用」がないと判断されてしまった直継が当主の座から追われたとみられている〔。
寛永9年(1632年)に隠居して長男・直好に家督を譲る。直好は正保2年(1645年)に三河西尾藩万治2年(1659年)に遠江掛川藩移封され、隠居である直勝もこれに従った。
寛文2年(1662年)7月11日、遠江国掛川城で病死した。病弱といわれていたが、結果として井伊宗家の家督を継いだ直孝より長命であった。墓所は静岡県袋井市可睡斎
子孫は掛川から越後国与板に移り、与板藩として幕末まで続いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ii Naokatsu 」があります。



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