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井出国子(いでくにこ、<井出クニ>文久3年(1863年)7月24日~昭和22年(1947年)9月6日)は、日本の宗教家。天理教の教祖中山みき(寛政10年(1798年)~明治20年(1887年))が亡くなって約20年後の明治41(1908年)年頃に突然神様が降り、その言動と振る舞いは、中山みきをしのばせることが多かったと言われた。「天理教二代目教祖」とか「播州のおやさま」とか尊称されたが、天理教本部では、彼女の帰神を公式に認めていない。 ==生涯== *文久3年(1863年)7月24日、吉永亀吉、吉永立つの長女として旧三木町に誕生。吉永家は代々播州の鍛冶屋であった。 *明治元(1868年)年 5歳 母親に連れられて兵神大教会(当時は神明組)の三木支教会に頻繁に参拝。女鳴物(楽器)を覚える。 *明治8(1875年)年 12歳 父、亀吉死亡 *明治18(1885年)年 22歳 結婚(父、亀吉の鋸鍛冶弟子、秋田源吉を婿養子として迎えて跡をとる。源吉との間に3人の男の子を出産する。 *明治27(1894年)年 31歳 はじめて神様の体験をする。 *明治29(1896年)年頃 母親を亡くす。それ以後神様が降りるまでの間、天理教とは疎遠になる。 *明治33(1900年)年 37歳 親神様の命を受け、夫の吉永源吉と3人の子どもを残して井出千太郎(仙蔵)の許にゆく。 *嫁ぎ先の井出家も、姑が天理教の信者であった。 *親神が降りてから人助けを決意するまで 明治41(1908年)年頃:井出国子に親神が降りた時、身体が振動し、自分で止めることが出来なかった。彼女は最初、自分が悪いことをした罰だと思っていた。彼女はそれまでに、修行をしたことはない。目が見えない日、口をきくことが出来ない日、目も見えず、口をきけない日が暫く続いた。目が見えない時は、一日中座ったままで、口のきけない時に倍働いたので、不自由は感じなかった。やがて、"人間世界を助けてやってくれ、世界がおさまるようにしてくれ"という声がどこからともなく聞こえ、何もしないでいると、手がくっつき人の手を借りないと日常生活に困るようになり、ひと助けを決心した。それからは、絶えず全身が振動し、無意識に言葉が出るようになった。 *警察の拘留や予審裁判を受ける 明治42(1909年)年には、助けを求める人が、1日に100人にもなることがあり、人を迎えるために建物を建てた。暫くして、三木の警察から催眠術を使っていると疑われ、10日間拘留された。釈放されると助けを求める人が押し寄せ、また、出頭命令が届き、拘留と釈放が繰り返されることが1年1ケ月続いた。お助けを求めるものの中には、無法者がいて、そのものが裁判所に送られたことをきっかけにして、井出は住み続けることが出来なくなった。明治43(1910年)年7月13日、城崎温泉にいる井出に裁判所から出頭命令が届き、帰宅した翌14日、予審裁判にかかった。予審判事からは、「人助けをすることは、何の罪にもならないので、意の向くままにして良い」と言われた。 *三十年祭で教祖殿にあがるが退出させられる 明治44年(1911年)の中山みき死後二十五年祭の時、天理教本部に自分の写真と切手を送って無視された井出は、大正5年(1916年)の三十年祭の時には、存命の中山みき(肉体はないが、まだ生きていると考える)の依頼によって、天理教本部に参拝し、教祖殿の前で人助けを始めようとするが、2名の本部員によって、廊下を引きずり出され、怪我をする。宿屋・福井屋に泊まる。そこで、中山みきの曾孫にあたる福井勘次郎に出会い、彼の世話をうけるようになる。兵庫県三木町高木村に住む。 *『みのこころゑのはなし』を発行 大正15(1926年)年4月17日 『みのこころゑのはなし』を発行する。 *病気治しなど 昭和9年(1934年)年 右脚切断の診断を受けた芹沢の岳父・藍川清成のお抱え運転手を治す。昭和10(1935年)年、脳溢血の後遺症を持つ義父・藍川清成とバセドー氏病の妻・金江を治す。昭和12(1937年)年、胃癌の芹沢の義母・藍川しむの寿命がないことを告げる。昭和15(1940年)年、結核性骨髄炎のため、右脚切断の診断を受けた芹沢の弟を治す。 *大東亜戦争について 昭和15(1940年)年 井出は、芹沢邸で、外務省顧問・白鳥敏夫に会い、次のように諭したという。 1.アメリカと戦争をしてはいけない。アメリカの方が国力が上だから敵にしてはいけない、ということではなくて、明治維新で日本が開国した時、アメリカのとった政策のおかげで、ヨーロッパの植民地にならずにすんだ恩があるから、戦争を仕掛けたら負ける。それが天の理だ。 2.天皇に命を投げ出すつもりで、外交官として勇気を出して、アメリカとの戦争を止めてくれ。 3.社をお祭りするのも良いが、それ以上に人間が神であることを忘れないように。 東京への空襲が始まる戦争末期には、 1.東京に空襲があることはわかりきったことであるが、信者に不安を与えるので言えない。 2.”負けるが勝ち”とも言うように、日本も降参したらいい。 昭和19(1944年)年12月6日には芹沢の兄に、和平の仲介を頼みにソ連に行くことを勧める(これは実現せず)。兄は帰京を1日繰り上げ、濃尾地震の難を逃れた。 *芹沢光治良とのかかわり 大正14(1925年)年6月10日、渡仏する芹沢光治良夫婦を神戸に見送る。(白山丸の船上での集合写真 左端井出クニ) 昭和7(1932年)年の秋から、春秋2回、上京する時は、芹沢邸に一泊する。 昭和19(1944年)年11月23日、芹沢らにそれとなく別れを告げに来た際には、中年の男女二人を伴い、三段重ねの重箱を二組持参し、皆の前で、次のようなことを話す。 1.天理教とキリスト教を一緒に研究してくれ。目に見えず、手でさわることも出来ないが神さんはある。 2.自分(井出)は、天理教の教祖でも二代目でもない。もし、自分が神さんなら、芹沢を含め皆が神さんだ。 3.信者は、病気が治ったり、お金が儲かると、親さん有り難いというものの、天地を動かす神さんがある、といことをわかろうとはしない。神さんは、天地の間にいっぱい充ちて、かすかに動いている力みたいなもの、と言える。 4.天界というところがあってね、自分は、何度も見せて貰った。 5.神さんの心とは、人間は一つ、互いに相手を神だとして立てあい、許しあい、拝みあう心です。人種・皮膚も色を問わず、皆同じ神さんの子供です。 芹沢には、二人だけの場で、良く辛抱した、神さんが誉めている、と話し、芹沢の妻には、子供が四人とも女であって、男の子のいないのを悲しんではいけない、と諭した後、四人の子供のそれぞれの将来について予言するように話す。 東京にもう三泊する予定を急遽切り上げ、臨時列車で帰郷する。 *満85才で亡くなる 昭和22(1947年)年9月6日、三木町高木で逝去。葬儀は翌日、仏式で取り行われ、芹沢も参列した。遺体は特別許可で、山の麓に埋葬された。宗教法人朝日神社の手続きを取る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「井出国子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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