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井口吉次 : ウィキペディア日本語版
村田吉次[むらた よしつぐ]

村田 吉次(むらた よしつぐ、永禄8年(1565年) - 元和7年10月29日1621年12月12日))は戦国時代から江戸時代の武将、福岡藩士。黒田二十四騎の一人。通称は兵助出羽守。姓ははじめ井口(いのくち)を名乗った。初名は与一之助。妻は黒田武俊の娘。子に吉常、正治、三太夫、七之助がいる。
井口与次右衛門の四男。母は広峯神社の神主の娘。三人の兄はいずれも黒田孝高の家臣となり、若年のうちに戦死している。天正5年(1577年)より同様に孝高に仕え、同年に孝高の子・松寿丸(後の黒田長政)が人質として羽柴秀吉に預けられた際、付き人として長浜城に同行した。
天正8年(1580年)元服して兵助と名乗り、英賀城攻めで初陣。天正12年(1584年)の岸和田合戦の際には、敵に忍び寄って相手を殺害し、相手の武具・刀・槍・馬を奪って戻ったという。天正16年(1588年)、豊前国で250石を拝領。文禄・慶長の役では足軽大頭を務めた。
慶長5年(1600年)、孝高が鍋島直茂の陣営を訪れた際に同行。この際、直茂が家臣の村田隠岐を「今まで一度も傷を負ったことが無い武士」と紹介した。それに対して孝高は吉次の兄三人が討死したことに触れ、幸運な村田隠岐にあやかって吉次に村田の姓をいただけるように願い、当人から許されたため、これ以後「村田」の姓を名乗ることとなる。
慶長6年(1601年)、黒田氏の筑前国入国後に夜須郡2,000石を拝領し、桐山信行の組下に置かれる。慶長9年(1604年)の孝高の没後、「出羽守」を称し、大組頭となった。元和6年(1620年)の大坂城再建工事では石垣を担当したが、その石材を運搬する際に吉田重成の組と道でかち合い、諍いを起こしている。
元和7年(1621年)10月29日、57歳で死去。
宝蔵院流槍術の免許皆伝であった。また、粗暴な性格で、「気に食わない」という理由で自身の領内の80人余りの首を斬ったり、家臣が暇を乞うと長屋牢に閉じ込めたり、吉次を恐れて逃亡すればその一族の者の首を刎ねたり、罪人を生きたまま斬り刻んだりしたという。
== 参考文献 ==

*本山一城『黒田官兵衛と二十四騎』宮帯出版社、2014年、300-309頁



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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