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井口阿くり : ウィキペディア日本語版
井口阿くり[いのくち あくり]
井口 阿くり(いのくち あくり、1871年1月12日明治3年11月22日) - 1931年昭和6年)3月26日)(通名井口あくり)は、現・秋田県秋田市南通亀の町出身の教育学者、体操家。アメリカ留学後女子高等師範学校日本体育会体操学校の教授を勤め、学校体育にスウェーデン体操を導入した。女子体育の先駆者で「日本女子体育の母」と呼ばれる。1911年(明治44年)藤田積造と結婚し藤田姓となる。
== 来歴 ==

=== 生い立ちと学生時代 ===

1870年1月12日(明治3年11月22日)、秋田久保田城下亀ノ町廓に住む父井口糺(タダス)、母ミヱの間に9人兄弟の四女として出生〔進藤1986、662-663頁。長女次女は夭折しており、糺の戸籍にアグリは二女と記載されている。〕。糺は戊辰戦争において久保田藩勤王に導いた傑士で、大正天皇即位のおり従五位を追贈されている〔進藤1986、659-661頁。〕。アグリは8歳から田中町(現秋田市大町三丁目の一部)にあった田中女学校、もしくは隣接していた児玉女学院に通い、11歳ころ秋田女子師範学校に入学したと考えられる〔進藤1986、469頁。秋田女子師範学校は1880年(明治13年)5月に開校し、同年田中女学校は閉鎖令にともない廃校となっている。〕。1884年(明治17年)15歳で同校中等師範科を卒業して、田中町の母校に勤務した〔進藤1986、340頁、469頁、675-684頁。1881年(明治14年)9月17日の明治天皇巡幸のとき、12歳のアグリは上等八級生だった。中等師範科卒業時は上等五級生に相当し、2年後上等師範科には第五級から再入学している。〕〔進藤1986、469-470頁。この母校は旭北学校(田中女学校の跡地にできたが1886年(明治19年)4月30日火事で焼失)か児玉女学院か断定できない。旭北学校は秋田市立旭北小学校の前身。〕。1885年(明治18年)9月秋田女子師範学校は高等師範科を新設。翌年3月には中等師範科を改組の上で高等師範科に統合し、女子教員養成部と改称して秋田師範学校と合併した。アグリは同年5月秋田師範学校女子教員養成部高等師範科に入学する〔進藤1986、338-348頁。この頃の事情は富樫つる子の追悼文に詳しい。1885年(明治18年)秋田女子師範学校教頭に赴任した松本荻江は女子教育の改革を推し進めたが、師範学校令発布に伴い秋田県令により同年7月秋田女子師範学校は解散。生徒は全員退学となった。8月に秋田県尋常師範学校が組織された後、再試験が行われ10月の秋田県尋常師範学校予備科入学を経て1886年(明治19年)1月秋田県尋常師範学校尋常師範科第一年級に編入となった。松本は秋田県尋常師範学校への再編を待たず辞職している。〕〔進藤1986、432-438頁。またアグリは師範学校時代に渡部こうの指導を受けた。渡部は1885年(明治18年)東京女子師範学校を卒業後秋田女子師範学校の教諭となり、1888年(明治21年)まで奉職。翌年町田忠治と結婚した。阿くりの晩年には後援会を作り活動を支援した。〕。15歳で卒業した師範学校に17歳で再入学したことになる。
1888年(明治21年)3月、秋田県尋常師範学校尋常師範科第二年級を修了すると、同級生の茂木チヱと共に秋田県知事から特撰生として推薦され、高等師範学校女子部に無試験で入学を許される〔進藤1986、496頁。特撰生になるための選抜試験は課された。〕〔進藤1986、471-501頁。茂木チヱは1871年9月4日(明治4年7月20日)生まれ。秋田太平学校から秋田女子師範学校附属小学校を経て、1883年(明治16年)秋田女子師範学校に入学。1885年(明治18年)15才で同校中等師範科を卒業。保戸野小学校教員、旭北小学校二等助訓を勤めた後アグリより一ヶ月早い1886年(明治19年)4月に秋田師範学校女子教員養成部高等師範科第三級に入学した。茂木が後に秋田県高等師範学校訓導となるにあたって提出した履歴書が残されており、富樫の追悼文の内容を裏付けている。〕。アグリはチヱとともに勉学に勤しみ、首席次席を分け合っていたと伝えられる〔進藤1986、499頁。卒業時には茂木が首席だった。女子高等師範学校卒業生15名を代表し茂木が作成した「謝辞」稿が残されている。〕。二人の在学中、高等師範学校女子部は高等師範学校から分離し女子高等師範学校となった。また1891年(明治24年)アグリは井口“阿久利”に改名した。秋田市役所が3月2日付けで願済字違訂正(戸籍に記載されている間違った内容を訂正する処理)を行っている〔進藤1986、662-663頁。〕。1892年(明治25年)、卒業にあたっては阿くりが女子高等師範学校附属小学校訓導、茂木チヱが秋田県尋常師範学校助教諭兼訓導として赴任することが決まる。阿くりは翌年には女子高等師範学校附属高等女学校助教諭となる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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