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交替式(こうたいしき)は、日本の律令官吏が交替する際の事務引継ぎに関する法規集である。勘解由使により編纂・集成され、官吏交替の手続きは交替式に則して行われた。 == 沿革 == 律令制が本格的に施行された8世紀のうちから、官吏、特に国司交替の手続きに関する法令(詔勅・太政官符)を集成した私撰の「交替式」と呼ばれる書物が存在していた。しかし、私撰「交替式」には内容の不備も多数あった。 797年(延暦16年)頃に国司交替の際に行政実績を監査する勘解由使が設置された。当時、国司交替に当たって手続きの不備や前任・後任の間の紛争が多発しており、国司交替の手続きを明確化する必要が生じていた。そして803年(延暦22年)、勘解由使の菅野真道により『撰定交替式』(延暦交替式)が編纂され、桓武天皇の裁可を得て、正式な国司交替の例規として扱われた。 824年(天長元年)以降、国司(外官)だけでなく内官(在京の官吏)も勘解由使の監査対象となった。867年(貞観9年)頃、内外官の交替手続きに関する法令を集成した『新定内外官交替式』(貞観交替式)が勘解由使においてまとめられた。以後、内外官の事務引継ぎは同交替式に依ることとなる。 10世紀前期、律令官制の再構築を図る醍醐天皇が、延喜格式の編纂事業を開始すると、その一環として交替式の再編纂も行われた。編纂作業は911年(延喜11年)に始まり、921年(延喜21年)に『内外官交替式』(延喜交替式)として完成した。これが最後の交替式となった。 なお、施行当時より慣例的に「交替式」と呼ばれてきているが、律令法における格式のおける考え方からすれば、これは「格」にあたるのではないかとする意見もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「交替式」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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