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京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏。 豊臣時代から江戸・徳川時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、江戸時代には日本三大大仏の一つに数えられた。 江戸の後期も天保年間になって再建された4代目は昭和の後期まで存続していたが、昭和48年(1973年)、失火により焼失した。 本項では、大仏を主題に、大仏殿(方広寺大仏殿)についても述べる。 == 造営の歴史 == === 秀吉による造営 === 天正14年(1586年)、豊臣秀吉は奈良の東大寺に倣(なら)って大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。 文禄4年(1595年)、大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートル(長さの比較資料:1 E1 m)の木製金漆塗坐像大仏〔木で造られ、漆塗りと金箔等を施された(参考:金仏壇#製造工程)、座した姿勢の大仏。〕が安置された。 しかし、慶長元年(1596年)に起きた大地震により、開眼前の大仏は倒壊した。このとき秀吉は大仏に対し「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝える。 慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われた。 大仏殿は高さ約49メートル、南北約88メートル、東西約54メートルという壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京の大仏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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