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京七宝(きょうしっぽう) * 古来(明治期以前)に京都で作られた七宝遺例の総称 * 並河靖之によって確立された七宝の技法および意匠 * 京都府知事指定工芸品(京七宝協同組合の商標) ここでは、古来の遺例の総称としての京七宝について記載する。 == 歴史 == 京都で七宝(京七宝)が作られた痕跡は、桃山期から江戸時代初期以降に数多く見られるようになる。 たとえば、堀川油小路の金工、嘉長は、小堀遠州により登用されて桂離宮の引手などを手がけたといわれている〔京七宝 並河靖之作品集 淡交社, p.136〕。遠州は、大徳寺龍光院の密庵席(みったんせき)、孤篷庵の忘筌席などに見られる草庵と書院を融合した茶室の様式を作り上げた。書院造りのもつ固さ厳しさを、低い天井や、釘隠に七宝を使うなどしてやわらげた。また、戸袋の引手などにも七宝を取り入れ棚まわりを装飾した。この頃の七宝装飾として、桂離宮の新御殿の桂棚の引手や、松琴亭の二の間戸袋を飾る巻貝形七宝引手などがよく知られている。 次に、秀吉~家康お抱えの七宝師であった平田彦四朗道仁が、独特の透明感のある釉薬を用いて、武家や公家屋敷の釘隠、刀の鐔など身の回りの品の装飾を手がけている。 修学院離宮、曼殊院門跡、西本願寺などの七宝遺例もこの頃のものである。 京都で七宝器が使われた記録は、さらに室町時代以前まで遡る。幕府の唐物目ききであった能阿弥、相阿弥等は七宝器を座敷飾りに推挙しており、東山殿御会所(銀閣寺の前身)の座敷飾などで七宝が使われた〔『君台観左右帳記』、『御飾書』より〕。しかし、特に戦国時代、侘び・さびを尊んだ茶の湯の隆盛の下では、華麗な色彩が身上の七宝器は茶人の受け入れるところではなかったという。豊かな色彩や装飾性が一般に広く受け入れられるようになったのは、琳派の時代を迎えてからのことであった。 江戸中期に入ると基準作となるような七宝違例は極めて少なくなるが、角屋の「緞子の間」、「青貝の間」などの七宝装飾が今日も見ることができる。たとえば、上述の青貝の間には真鍮植線により、白、緑、青、黄、黒の釉薬を施した銅製花文入籠目形の七宝引手が岸駒(1756~1838)の描いた襖に取り付けられている。この頃には、象嵌七宝に加えて、江戸初期にはまだ少なかった有線七宝も次第に多くなり、多彩な七宝が作られるようになる。しかし、この頃の七宝器は、銘のない水滴、香炉、引手、釘隠など、建物から容易に取り外し持ち出すことができるものが多く、製作年を確認できる違例はほとんど無くなっていく。 江戸期以前には、京都で七宝は『ビードロ座』『七寶流し』『七寶瑠璃』などと呼ばれていた〔京都金属工芸協同組合公式サイトより〕。 あるいは平田彦四朗道仁の一門の作は『平田七宝』と呼ばれており、五条坂の金工、高槻某の手がけた七宝は『高槻七宝』と呼ばれるなど、七宝師一門の名で呼ばれていたようである 〔京七宝の呼び名は、中原哲泉の画集などに見られ、明治時代以降に定着したと推測される。哲泉の下画や並河靖之の七宝の銘に「大日本京都並河造」、「京都並河」、「京都七宝」など、京都の地名が見られるようになる。おそらく、七宝の生産地が京都から武州、加賀、近江、と増えていく中で、各地域で自然に地域名が使われるようになったものと推測される。なお、並河靖之七宝記念館による学術研究などの中においては、並河を中心とした明治期の七宝を「京都七宝」としている。〕。 明治に入ると、武士の時代の終焉により、武家屋敷などの装飾を手がけてきた古来の七宝家は大きな打撃を受ける。江戸時代から7代続いたといわれる高槻七宝は文久~明治元年(1861年~1868年)の頃途絶えたといわれる〔「工芸品意匠の沿革」京都七宝の概要, 明治33年〕。 そして、京都舎密局に招いたドイツ人科学者ゴットフリード・ワグネルが透明釉薬を開発し、それまでの不透明の釉薬は泥七宝と呼ばれるようになる。ワグネルは、内国勧業博の全般を指導しており、1877年の第一回報告書の中で、 愛知の品と比べ京都府の品の質の悪さを指摘している。さらに、京都府以外の品についても、フランスの博覧会に出品すれば評判を落とすことになると厳しく評した〔『中原哲泉 京七宝文様集』淡交社, p.13〕。 ワグネルは1877年から1年間、ドイツ領事の委託を受けて七宝の研究を行ったといわれている。そして、翌1878年2月3日から3年間、京都府(槙村正直府知事)に雇われ、京都舎密局で七宝を含む工芸の化学的な技術の指導や講義を行った。現在も左京区岡崎公園で見ることができる顕彰碑は、このときのワグネルの功績を称えたものである。こうして得られた、新たな透明釉薬の技術を用いた並河靖之の活躍により、国際的にも評価される傑作が生み出される。 並河は有線七宝による金属の線を意匠の一環とすることで七宝独自の趣を引き出し、また、独自に開発した黒色透明釉薬(通称「ナミカワの黒」)で背景を漆黒に染めることにより、草木や蝶などの画の鮮やかな色彩を際立たせた。図案の多くは、中原哲泉によるもので、鳳凰や龍、蝶などの画には、哲泉と馴染みのある京都の公家文化が反映されている〔後には荒木寛畝による下画も見られる。〕。 哲泉は、京都舎密局で1年間七宝技術を学び、自らも並河家と白川を挟んだ西側に工房を構え京七宝を手がけた。 この頃、靖之が工房を構えた、三条大橋から三条白川橋一帯には、明治7年まで並河が七宝を製作していた錦雲軒をはじめ、並河の成功をモデルとした20軒を越える七宝業者が軒を連ねた〔京七宝 並河靖之作品集 淡交社, p.140〕。 明治から大正時代にかけて、数多く生産された七宝器は、そのほとんどが外貨獲得の手段として海外に輸出されており、日本に残っている品は僅かである。清水三年坂美術館が海外から並河の作品を含めた明治期の工芸品を買い戻しており、並河靖之七宝記念館と並んで日本国内でまとまった量の作品を見られる数少ない場所になっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京七宝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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