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京極高富[きょうごく たかとみ] 京極 高富(きょうごく たかとみ、天保6年11月19日(1836年1月7日)- 明治22年(1889年)2月9日)は、丹後峰山藩の第11代藩主。第10代藩主・京極高景の長男。正室は稲垣長剛の娘。明治に入り子爵。官位は従五位下備中守、周防守、主膳正。 幼名は啓治郎。嘉永2年(1849年)3月7日、父高景の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、従五位下備中守に叙任する。後に周防守、主膳正に改める。安政4年(1857年)2月、大番頭に就任する。文久元年(1861年)9月14日、大坂玉造定番に就任する。天誅組の変や生野の変鎮圧で功を挙げている。慶応2年(1866年)1月7日、若年寄に就任する。同時に将軍徳川家茂から大坂への従軍を命じられる。同年5月25日、第二次長州征討に際し、四国方面軍の取締を命じられる。四国方面軍とは、徳島藩や松山藩、高松藩などを主力として、海路四国から徳山を経て、山口へ進攻する部隊である。それにともない、高冨は伊予松山に陣を構える。 慶応3年(1867年)4月8日、帰府を命じられる。同年6月18日、国内事務取扱を命じられる。同年10月27日、陸軍事務取扱を命じられる。同年12月2日、若年寄兼海軍奉行に就任する。慶応4年(1868年)2月14日、若年寄を退任する。同年閏4月15日、上洛し、新政府へ恭順の姿勢を示すも、佐幕派として見なされ、新政府により謹慎を命じられた。しかし、養嗣子の高陳が養父の名代として既に3月20日に天皇に拝謁していることや、新政府軍に兵を出していることなどが考慮され、同年5月14日に謹慎を許された。直後の5月28日、胸の持病を理由にして、高陳に家督を譲って隠居した。 明治8年(1875年)9月30日、養子高陳が隠居し、再び家督を相続する。明治17年(1884年)、子爵となる。明治22年(1889年)2月9日、55歳で死去。跡を新たに養子とした高致が継いだ。墓所は京都府京丹後市峰山町吉原の安泰山常立寺。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京極高富」の詳細全文を読む
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