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京極高広[きょうごく たかひろ]
京極 高広(きょうごく たかひろ)は、丹後宮津藩の第2代藩主。国持大名。 == 生涯 == 慶長4年(1599年)、初代藩主・京極高知の次男として伏見城下の京極屋敷にて生まれる。元和8年(1622年)の父の死去により、丹後京極家の家督と12万3000石の遺領うち7万8200石の領地を継いだ。藩政においては、城郭や城下町の整備・拡大を行なって藩政の確立に努めている。 1648年、隣藩福知山藩の藩主稲葉紀通に寒鰤100匹をねだられたが、それを幕府の賄賂に使われることを恐れた京極側が頭を切り落としたものを進呈したため、この非礼に激怒した稲葉側が福知山藩内に入った宮津藩の領民を次々首をはねて殺害するという報復を行った。この常軌を逸した行為により幕府に激しく叱責された稲葉紀通は、火縄銃を乱射して抵抗したが、最後は自害した。 高広は領民に対しても悪政を敷いたので、承応3年(1654年)に農民が藩外へ逃散している。同年4月23日、長男の高国に家督を譲って隠居し、安智軒道愚と号して現在の宮津市字安智に1万石の隠居料を持って住んだ。しかし隠居後も藩政に介入し、高国と対立したために、寛文6年(1666年)5月3日に宮津藩は激しい親子喧嘩のせいで改易されるという前代未聞の事件を起こした。その後、京都岡崎に閉居し、同地で延宝5年(1677年)4月22日に死去した。享年79。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京極高広」の詳細全文を読む
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