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妙覚寺(みょうかくじ)は、京都府京都市上京区にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は具足山。塔頭が三院ある(善明院、實成院、玉泉院)。 == 歴史 == 妙覚寺は1378年(永和4年)、日実によって創建された。日実はもと妙顕寺の僧であったが、教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立のため同寺から離脱し、小野妙覚の外護により、四条大宮に妙覚寺を建立した。実質的な創立者は日実であるが、妙覚寺では日像を開山、日実を4世としている。寺は1466年(寛正7年)、近隣の本覚寺と合併し、寺域を広げる。1483年(文明15年)には足利義尚の命により、二条衣棚(現・京都市中京区)に移転した〔中京区衣棚通二条下るに上妙覚寺町、その南に下妙覚寺町の町名が残る。〕。 1536年(天文5年)の天文法華の乱際に寺は焼失し、堺に避難した。その後、1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、妙覚寺は1548年(天文17年)、二条衣棚の旧地に再建された。 1582年(天正10年)の本能寺の変の際、織田信長の嫡男織田信忠は妙覚寺を宿舎としていた。明智光秀の謀反を知った信忠は寺を出て、明智勢を討つべく二条御所へ向かうが、果たせず自害する。明智軍によって信長と信忠が討たれるに伴い、本能寺と二条御所の一部が放火され焼失したことが『兼見卿記』『日々記』などに書かれているが〔河内・259頁〕、妙覚寺がこの事件に遭難して焼失したということを伝える史料は現在の所一つも確認できない〔河内・260頁〕。このため、妙覚寺は本能寺の変では焼失どころか無傷であった可能性も指摘されている〔河内・260頁〕。 寺は1583年(天正11年)、豊臣秀吉の命により、現在の地に移転している。1595年(文禄4年)、妙覚寺21世の日奥は、不受不施の立場から、秀吉が主催した方広寺大仏の千僧供養への出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状」を提出した。 寺は1788年(天明8年)、天明の大火により焼失するが、その後再建されている。 妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺はいずれも山号を具足山と称し、「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている〔「三具足」の原義は仏前に供養するための香炉、燭台、花立の3種の仏具のことである。〕。 現住は85世及川日周貫首(新宿区常圓寺より晋山)。奠師法縁(奠統会)縁頭寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「妙覚寺 (京都市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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