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京都市交通局500形電車 : ウィキペディア日本語版 | 京都市交通局500形電車[きょうとしこうつうきょく500がたでんしゃ]
京都市交通局500形電車(きょうとしこうつうきょく500がたでんしゃ)は、かつて京都市交通局(京都市電)が所有していた路面電車車両である。1924年から1928年にかけて40両が製造された。 == 京都市電初のボギー車 == 大正期の京都市は、日本の他の大都市と同様、拡大の時代であった。明治期に実施された琵琶湖疏水の建設や水力発電の開始、その電力を活用して京都市街と京都の河港である伏見港を結んだ、日本最初の営業用の電車である京都電気鉄道の開業と市内中心部への路線網の拡大、明治末年に行われた三大事業(道路拡幅、市電の建設、上下水道の整備)などによって近代都市にふさわしい都市インフラを整備した。また、京都帝大をはじめとした高等教育機関の設置は、現在に続く「大学のまち・京都」の原型を作るもととなった。こうした施策の結果、京都市は明治初年の東京奠都のショックを克服して、京都市とその周辺部に人口や産業の集積が見られるようになり、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸といった都市とともに六大都市と称されるようになった。そして、京都市域からあぶれた人口や産業は、北部の周辺地域を中心に住宅立地がさかんとなり、西南部を中心に繊維関係の工場が多く立地するようになり、どちらの地域も京都市とのつながりは日常不可欠なものとなった。このような状況を踏まえて、京都市は1918年に周辺の町村を合併して市域を拡大し、1921年には市街地のスプロール化を防ぐためにこれらの新市街地と従来からの京都市街地を含めた形で都市計画決定を実施し、現在の京都市街の骨格を形作る西大路通や九条通などの外郭線や、その外周道路となる北山通や十条通などの建設・道路拡幅が決定された。 一方、1912年に開業した京都市電は、1918年に京都電気鉄道を買収して路面電車事業の市営一元化を実現させ、大正末期から昭和初期にかけて旧京電東回り線の広軌化(寺町、木屋町通から河原町通へ路線付け替え)や1918年の合併地域への路線延伸が進められるようになった。車両は開業時に投入した広軌1形でまかなっていたが、路線の延長に伴い車両が不足することが予想されたほか、既存路線においては乗客が増加していたことから、京都市電においても大阪市電1001・1081形や神戸市電C車・E車・I車・J車・K車(後の500形)で実績のある3扉大型ボギー車を導入することになり、500形が登場することとなった。 本形式が500形と一足飛びに大きな形式を与えられたのは、従来の単車とは違う画期的なボギー車としての位置づけからであり、その後登場した単車グループは300形・200形と、逆戻りする形で形式が与えられた。その後、600形が登場して他都市同様登場順に形式が与えられるのかと思われたが、戦後に登場した大型ボギー車の1000形が500形同様の理由で一足飛びに大きな形式を与えられ、その後登場した中型ボギー車は800形・900形・700形の順番に登場して、形式が行きつ戻りつして与えられるという、他都市では見られない特色のもととなった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京都市交通局500形電車」の詳細全文を読む
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