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京都要法寺 : ウィキペディア日本語版
要法寺[ようぼうじ]

要法寺(ようぼうじ)は、京都府京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町にある日蓮本宗本山。山号は、多宝富士山。日興の法脈を継承する富士門流に属し、静岡県駿東地方に分布する富士五山や、保田妙本寺伊豆実成寺とともに、同門流興門八本山を構成している。
開基は日尊1308年延慶元年)、日尊は、諸国を遍歴し、京都山城に法華堂を建立した。1550年天文19年)、日辰により上行院と住本寺を統合して要法寺が建立された。日蓮本宗は、宗祖日蓮、二祖日興、三祖日目、日尊は日蓮本宗第4代である。市街地の中に1万3500平方mの境内をもち、歴史ある建築が並ぶ。
==起源と歴史==

*1308年延慶元年)、日尊は諸国を遍歴し、京都山城に法華堂(後の要法寺)を開いた。
*1333年正慶2年/元弘3年)春、日尊は、師の日目に随って天奏(天皇に仏法を説くこと)にのぞみ、京に向かう途中、美濃の垂井で日目が遷化(死亡)すると、その意志を継いで入洛した。
*1334年(元弘4年/建武元年)春、日尊は後醍醐天皇に天奏を行った。その功績によって皇室より六角油小路に寺地を寄進される。
*1336年延元元年/建武3年)、日尊は六角油小路に法華堂(後の上行院)を開く。
*1342年興国3年)10月13日、日尊は会津実成寺から弟子の日印を招いて上行院を授けた。
*1346年(興国6年)5月8日、京六角上行院開基(京要法寺4代)太夫阿日尊寂(81歳)
*1362年正平17年)、日尊のもうひとり弟子、日大は冷泉西洞院に法華堂を建てた。これが後の住本寺である。上行院と住本寺は、同じ日尊の弟子が住職を務めたが、当初から犬猿の仲であったとされる。
*1536年天文5年)、比叡山衆徒(山門)による法華宗21本山の焼き討ちという天文法乱によって上行院、住本寺とも焼失した。法華宗徒は、京を追われへ避難した。
*1548年(天文17年)、法華宗徒の京への帰洛が許され、消失した寺の再建に取り掛かる。住本寺の広蔵院日辰が上行院と住本寺を統合することを提案、新寺法条目15個条を定め、新たに要法寺を建立することとなった。
*1550年(天文19年)、五條坊門堀川に要法寺が建立された。その功績によって日辰が住職を務める。
*1583年天正11年)、秀吉の命により、京極二条東(現寺町二条)に移転。
*1708年宝永5年)、大火で類焼。
*1759年宝暦9年)、宝暦の大火。
*1783年天明3年)、要法寺末の岐阜の寺院が仏像を撤廃。
*1795年寛政7年)、名古屋の本圀寺末の寺院より幕府に「新義異流」として告発される。(寛政法難)
*1797年寛政9年)、要法寺側は新義にあらず富士の立義であると主張。大石寺側は「富士の立義、教式は要法寺とは無関係」と答申する。
*1807年文化4年)、京法華宗15本山側と仏像安置を条件として最終的に合意する。
*1876年明治9年)、末寺84ヶ寺とともに、富士門流の統一教団日蓮宗興門派の結成に参加。
*1899年日蓮宗興門派日蓮本門宗本門宗)と改称。
*1915年大正4年)、要法寺は再び仏像を撤廃す。
*1941年本門宗一致派日蓮宗勝劣派顕本法華宗とともに三派合同を行い、日蓮宗を結成。本門宗の本山・末寺は日蓮宗の内部で本門宗の前管長由比日光を会長として興統法縁会を結成。
*1950年昭和25年)12月、要法寺は旧末寺50ヶ寺とともに日蓮宗から独立、日蓮本宗を結成(旧末寺34ヶ寺は日蓮宗に残留。うち島根県内の旧末寺二十数ヶ寺は興統法縁会島根尊門会を組織している)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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