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京都駅跨線橋転倒事故(きょうとえきこせんきょうてんとうじこ)は、1934年(昭和9年)1月8日に、京都市下京区の京都駅構内で起きた群集事故である。77人の死者を出す惨事となった。 == 事故の概要 == 1934年1月8日、広島県呉市の海軍海兵団に入団する新兵715人〔京都・金沢・富山・敦賀・福井・津の各陸軍連隊管内からの入団予定者であった。〕(ほかに付添人約300人)を輸送する臨時列車が京都駅から運行されることになっていた。 臨時列車は当日午後10時22分に京都を発車するダイヤであったが、早い時間から見送りの関係者(新兵の家族のほか在郷軍人会や青年団など、数千人とみられている)が駅構内に詰めかけていた。しかし、おびただしい人数のため、改札口(中央口)に面した1番ホームは立錐の余地もない状態になっていた。 危険を感じた駅員は、群衆を第3ホーム(現在の4・5番線)に誘導することとした。既に多くの人がいた西跨線橋〔現在の南北自由通路の箇所にあり、1928年の昭和天皇即位大典の際に建設された幅の広い通路が特徴であった。〕を避け、東跨線橋〔1981年の地下通路の完成により取り壊され、現存しない。〕から第3ホームに群衆を下ろそうとしたが、ホームに通じる階段も既に人で溢れており、全く身動きが取れない状態になった。午後10時頃、階段の半ばで押し合いが起き、その中で転倒者が発生、その上に群衆が折り重なるように倒れかかった。結果として100人以上が下敷きとなり、77人が死亡、74人が負傷する惨事となった。犠牲者には海兵団の入団予定者2名のほか、新興キネマの女優・原静枝も含まれていた。 事故翌日の東京朝日新聞には、現場近くに居合わせた記者による記事が掲載されており、それによると事故発生後、憲兵や警察官が群衆を下がらせたあと救助活動が実施され、死傷者はホームや駅員の休憩所に並べられた。在郷軍人が被害者に水を掛けたり人工呼吸を行うなど協力したという。東京朝日新聞には、事故を目撃した入団者から臨時列車の大阪駅停車中に取材した証言もあり、「ブリッジ(跨線橋)付近のホーム上は大根を押し重ねたように人が積みあがった地獄絵そのもの。物凄い叫びは、まだ耳に残っています」と記している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「京都駅跨線橋転倒事故」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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