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人情本(にんじょうぼん)は、江戸の『地本』のうちの、庶民の色恋をテーマにした読み物の呼び名。江戸時代後期の文政期から、明治初年まで流通した。女性に多く読まれた。代表的作者は為永春水とされる。 == 解説 == 大衆娯楽本は、江戸では、17世紀中頃過ぎから出版され、それを『地本』と総称した。草双紙・洒落本・読本・滑稽本・人情本・咄本・狂歌本などの区分のうち、恋愛ものは先ず洒落本だったが、松平定信の寛政の改革期(1787 - 1793)に弾圧され、一時姿を消した。 文政2年(1819)に出た十返舎一九編集の『清談峯初花』が、人情本に分類される最初の作品とされ、翌年の滝亭鯉丈・為永春水合作の『明烏後正夢』、天保2年(1831)の曲山人の『仮名文章娘節用』、天保3年の為永春水の『春色梅児誉美』前半と続いた。翌年の後半の序で、春水は『東都人情本の元祖』と称した。 洒落本は遊郭を舞台にしたが、人情本は町人の話で、若旦那か番頭と女房・生娘・芸者・遊女などとの交流の、際どい描写を織り混ぜ、そこに悪党がからみ込むのを、女性陣の心意気や意地や機転でハッピーエンドに漕ぎつける、そんな筋が多かった。 美濃紙半裁の片面に左右2ページを木版刷りし、二つ折りした中本(ちゅうほん)と呼ばれる寸法で、それの数十枚を袋綴じする合巻的な製本だった。B6に近い。しかし人情本は、毎ページに絵を刷る合巻と違って絵が少なく、字は益々仮名が多く、彫師が楽で安価に仕上がり、読み易くもあり、女性客が多かったのには、それもあった。 本屋仲間は『中型絵入り読本』(読本に挿絵を入れた中本)と呼んだ。寸法から滑稽本と一緒に『中本』、恋に泣く場面が多いので『泣本』とも呼ばれた。 人情本は天保期に栄えたが、水野忠邦の天保の改革下の天保12年(1841)暮、作品の内容が淫らであるとして、為永春水が取り調べられ、それが元で翌々年に没した。 『東都人情本の元祖』亡き後の人情本は、松亭金水・二代目梅暮里谷峨・条野採菊らが書き繋いだが、明治20年頃に消えた。 武藤元昭は、人情本を特徴づけるのは「いき」とは異なる「あだ」だと指摘している〔武藤『人情本の世界』笠間書院、2014〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「人情本」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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