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『人情紙風船』(にんじょうかみふうせん)は、1937年(昭和12年)に公開された山中貞雄監督の日本映画。日中戦争で戦病死した山中の遺作である。 == 略歴・概要 == フィルムがまとまった形で現存する山中貞雄監督作品の3作のうちの一つ。河竹黙阿弥作の歌舞伎『梅雨小袖昔八丈』(「つゆこそでむかしはちじょう」通称:『髪結新三』)を原作〔「実はジャック・フェデの『ミモザ館』が換骨奪胎されて隠されている。全体の雰囲気はゴーリキーの『どん底』を意識して踏襲したところがあり、映画のジャンルとしてはグランドホテル形式が採用されている。そして江戸が舞台のはずだが、京都生まれの監督はそこに路地で育った自分の少年時代へのノスタルジアを、そっと重ねあわせている」(四方田犬彦『日本映画史110年』集英社新書 2014年p.32)。〕とし、山中の盟友である三村伸太郎がシナリオを執筆した。『街の入墨者』『河内山宗俊』に次いで前進座と三度目のコンビを組み、一座の花形である河原崎長十郎と中村翫右衛門が主演し、ほか多くの座員が出演した。また、当時前進座に所属していた加東大介が市川莚司名義で、河野秋武が山崎進蔵名義で出演している。 貧乏長屋に暮らす人々の日常と悲哀を描き、山中や稲垣浩らが参加した監督・脚本家集団「鳴滝組」が作っていった「髷をつけた現代劇」(「時代劇の小市民映画」とも)という、時代劇映画の一つのジャンルの中で最も傑作と言われる作品である。1937年度のキネマ旬報ベストテンで第4位にランクインした〔フランソワ・トリュフォーは「最も心うたれたのは、キャメラと演出が緊密にからみ合って、一分のすきもない完璧な画(え)づくりに成功している点です」と絶賛している(山田宏一・蓮實重彦『トリュフォー 最後のインタビュー』平凡社 2014年p.443)。〕。 1937年(昭和12年)8月25日、封切り当日に山中に赤紙が届き、平安神宮で壮行会が行われ、神戸港から中国に出征した。山中は戦中、手記に「紙風船が遺作とはチト、サビシイ」と書き遺している。山中は1938年(昭和13年)9月17日に河南省で戦病死した。 ランキング *1979年:「日本公開外国映画ベストテン(キネ旬戦後復刊800号記念)」(キネ旬発表)第4位 *1989年:「日本映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第13位 *1989年:「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋発表)第10位 *1995年:「オールタイムベストテン・日本映画編」(キネ旬発表)第4位 *1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第18位 *2009年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・日本映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第23位 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「人情紙風船」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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