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人民革命党事件(じんみんかくめいとうじけん)または人革党事件(じんかくとうじけん)は、朴正煕政権下の大韓民国において、韓国中央情報部(KCIA)が社会主義性向のある個人を告訴した訴訟事件。事件は2度にわたって発生しており、被告は1965年の第一次事件では反共法で、1975年の第二次事件では国家保安法によって告訴された。 1975年4月9日に韓国大法院(最高裁)は被告8人に死刑を宣告し、判決から18時間後に刑を執行した〔〈今日は何の日?〉4月9日版 朝鮮新報〕。これは、司法による殺人事件であり、これらの事件は朴正煕時代の韓国における人権抑圧の事例として知られている。 2005年12月、韓国国家情報院は人民革命党事件がKCIAによる捏造であったと発表した〔。これを受け、韓国司法当局は人民革命党事件に対する再審査を開始、2007年1月23日に死刑がすでに執行された8名全員に無罪の判決を言い渡した〔‘인혁당’ 사형 8명 재심서 무죄판결 (‘人革党’死刑8名再審査 無罪判決) .京郷新聞2007年1月23日〕。 == 第一次事件 == 第一次事件は、1965年8月14日に発生した。この日、金炯旭KCIA部長は、都礼鍾、楊春遇ら革新系人士、報道関係者、学生など41人を検挙したと発表し、事件の「全貌」を公表した〔東亜日報1965年8月14日1面左記事〕。 KCIAは「彼らは朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮労働党から指令を受け、「人民革命党」(、人革党)なる反国家団体を組織し、各界の人士を集めながら国家事変を企てていた」と主張した。だが、実際に検察が裁判所へと起訴できた人数は13人のみで、しかも都礼鍾(ド・イェジョン、)と楊春遇(ヤン・チュンウ、)以外の11人には下級裁判所で無罪が宣告された。しかし、最終的には最高裁判所(大法院)が、都礼鍾、楊春遇と他一人に対し懲役6年の有罪判決を、他の10人には懲役1年執行猶予3年の有罪判決を下し、司法判断が確定した。 当時、ソウル地方検察庁の公安部検事達は良心上から起訴に反対、起訴状への署名を拒否するとともに一部検事は辞表を提出した。しかし辞表は受理されて検察が独裁に協調するようになるきっかけになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「人民革命党事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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