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人見誠治 : ウィキペディア日本語版
人見誠治[ひとみ せいじ]
人見誠治(ひとみ せいじ、1898年(明治31年)1月12日 - 1978年(昭和53年)1月16日)は、日本のジャーナリスト、マスメディア経営者。
== 経歴 ==
1898年(明治31年)秋田市中亀ノ丁に生まれる。1915年(大正4年)に秋田中学校を卒業し、小学校代用教員などを務める〔『秋田人名大事典』〕。
1927年(昭和2年)、秋田魁新報社に入社。運動部記者、政経部記者を経て、計画部長兼地方部長、計画部長兼社会部長、業務局次長兼計画部長などを歴任し、1943年(昭和18年)取締役に就任する〔。以後、常務取締役業務局長、専務取締役を務め、1946年(昭和21年)11月代表取締役社長に就任、同社の経営に当たった。1953年(昭和28年)、ラジオ東北株式会社を設立(代表取締役社長)〔。1969年(昭和44年)には秋田魁新報社代表取締役会長に就任、以後1977年(昭和52年)3月まで会長職を務める。この間、共同通信社理事(1952年(昭和27年))、日本新聞協会理事(1952年(昭和27年))、同協会常任理事(1954年(昭和29年))なども務めた〔。1981年(昭和56年)、新聞人功労者として千鳥ヶ淵公園の「自由の群像」記念碑にその名を刻印された〔【電通】マスコミ功労者顕彰 〕。
ジャーナリズム以外では、1948年(昭和23年)秋田県教育委員に当選(当時の教育委員は公選制)、1期4年間教育委員長を務めた。また1950年(昭和25年)から1977年(昭和52年)までの間、秋田県体育協会会長として県内の体育の振興に尽力した〔。秋田国体開催の1961年(昭和36年)には体育振興の功績で秋田県文化功労章を受章している〔。また、日本体育協会の理事、常任理事、評議員のほか、日本国際連合協会秋田県本部長、秋田県育英会理事長、秋田県芸術文化協会会長などの役職も務めた〔。
1962年(昭和37年)には体育振興の功労で藍綬褒章を、1968年(昭和43年)には報道界の発展、青少年団体の育成、体育界の振興への功労で勲三等瑞宝章を、それぞれ受けている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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