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『人間万事金世中』(にんげんばんじかねのよのなか)とは、歌舞伎の演目のひとつ。全二幕。明治12年(1879年)2月に東京新富座にて初演。河竹黙阿弥作。 == あらすじ == === 序幕 === (横浜境町辺見店の場)相模国の一漁村に過ぎなかった横浜が、貿易港として大いに開け、明治の世にもなった時分のこと。 恵府林之助(えふりんのすけ)の父親は横浜で瀬戸物問屋を営んでいたが、相場に手を出して失敗したことにより身代を失い、林之助も父親が病没ののちは、同じ横浜の境町に貿易商として店を構える叔父の辺見勢左衛門(へんみせいざえもん)のもとで、居候として身を置いていた。勢左衛門は金に汚い男で、甥に当たる林之助も店の丁稚同様に扱って掛取りなどさせている。ところで勢左衛門の妻おらんには、おくらという姪がいた。このおくらももとは生糸問屋のお嬢様であったが、父親が商売にしくじって身代を失い、その後父母ともに病死したことによりこの辺見の家に引き取られ、やはり下女同様の扱いで働かされていた。 そこに林之助の乳母おしづの孫に当たる千之助が訪れる。聞けばおしづは病にかかって働けず、困窮しているので十円貸してほしいという。しかし居候の身の林之助には、余分な金はなかった。千之助が帰ったあと、林之助はおらんにわけを話し、金を貸してくれるよう頼むが、おらんは居候に貸す金はないとにべもなく断る。おらんも夫の勢左衛門と同じく、けちで意地汚い性分の女であった。林之助はちょうど辺見家を訪れていた親類の雅羅田臼右衛門(がらたうすえもん)にも十円を貸してくれるよう頼むが、居候に落ちぶれた林之助とはもはや縁のない他人も同然だと冷たく断られた。林之助はしかたなく、横浜本町で商売をしているこれも親類の毛織五郎右衛門(けおりごろうえもん)に頼んでみようと出かけてゆく。 するとそこへ入れ違いに、五郎右衛門がやってきた。じつは勢左衛門や臼右衛門には長崎に藤右衛門という大金持ちの親類がいたが、以前より具合を悪くしていたのがついに死んでしまったと知らせにきたのである。そして藤右衛門の遺言状を持ち、親戚一同でその中身を改めようとやってきたのであった。藤右衛門には遺産を譲る者がいないので、勢左衛門たちはうわべでは悲しむ様子を見せながらも、自分たちに形見分けとしてその莫大な遺産がもらえるものと皮算用する。 (同 仙元下裏借家の場)いっぽう林之助は、五郎右衛門に会うことがかなわず金の工面は出来なかった。しかしこのままでは済まされまいと、乳母おしづと千之助の暮らす借家を訪れる。ところがそこでは意外なことが起きていた。何者かが林之助の名を使って、十円の金を為替でおしづ宛てに届けていたのである。林之助は不審がる。とそこへ、大家の武太兵衛(ぶたべえ)が米屋と薪屋を連れてやってきた。武太兵衛たちはおしづが溜めていた店賃や、米代薪代を取り立てにきたのだが、しかしどうせ金はなかろうとおしづたちを罵り、すこしでも金にしようと、無慈悲にも粗末な家財道具を洗いざらい持っていこうとする。林之助が例の十円のうちから金を出して払うと、武太兵衛たちは態度をころりと変えて帰っていった。それを見送る林之助は、「地獄の沙汰も金次第じゃわえ」とつぶやくのであった。 (同 辺見宅遺状開きの場)辺見の家では勢左衛門をはじめとして臼右衛門、林之助も戻り、みながそろう前で藤右衛門の遺言状が開かれることになった。五郎右衛門が読み上げる。ところがその内容は、勢左衛門たちの期待を大きく裏切るものだった。親類でありながら平素より手紙ひとつよこさなかった勢左衛門には、形見分けとして義理に三円の金を遣わす。そして同じく身内に当たるおくらには百円、さらに林之助にはよく手紙で様子を尋ねてくれたので、その遺産から二万円という大金を林之助に譲るというのである。あまりのことに卒倒する勢左衛門。五郎右衛門は為替で送られた三円と二万円を、勢左衛門と林之助にそれぞれその場で渡す。おくらは百円を、とりあえず五郎右衛門に預かってもらうことにした。林之助は、二万円の大金で潰れた家名を再興しようと喜ぶのだった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「人間万事金世中」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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