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仁川大学校[にがわだいがっこう]
2009年7月に松島(ソンド)キャンパスが完成し、9月までに南区道禾洞の旧キャンパスから移転。2010年3月には同じく仁川広域市立の仁川専門大学と統合した。2013年1月18日、仁川広域市立から国立大学法人へ転換した。〔国立大学法人 仁川大学校 出帆 (朝鮮語)、仁川大ニュース:インサイド仁川、2013年1月18日付記事(京仁日報記事の転載)。2013年1月21日閲覧。〕
== 歴史 == 仁川大学校は1979年、白仁燁の運営する善仁(ソニン)学園によって、仁川工科大学として創立された。善仁学園は、ソングァン学園(1947年創立)が経営難から1958年に白仁燁の経営に移ったもので(1965年改称)〔善仁高等学校 学校沿革 (朝鮮語)。2011年7月29日閲覧。〕、傘下の学校は一時16校を数えた〔以下、市立化の経緯は 大畑裕嗣 『現代韓国の市民社会論と社会運動』 2011年3月、成文堂、ISBN 9784792332822、164頁-165頁 による。〕。学園経営に不正(不正編入学、経費横領など)があったとして、1981年に系列高校の高校生らによる抗議活動が起こり、これがきっかけとなり1982年、白仁燁は横領容疑で逮捕された。白仁燁は学園を国家に献納すると発表したが、1986年には学園の経営陣に復帰するなど、その後も善仁学園に影響力を行使し続けた。 仁川大学校の教員・学生による反白仁燁闘争を支援するために、1992年には「善仁学園事態を憂慮する仁川市民の会」が市内知識人らによって結成され、(1) 白仁燁の排斥、(2) 当局による対処、(3) 学園の市立化 を要求する嘆願書への署名運動や、不正関係者の告発などの活動を繰り広げた。その成果として1994年3月、善仁学園は廃止され、所有していた学校は仁川大学校を含めて仁川市立となり、同8月に白仁燁は仁川地方検察から業務上背任の罪で懲役1年半、執行猶予2年を申し渡された。〔大畑はこの市民運動について、身近な学校運営の不正を糾す側面と、「日帝残滓」の排除運動としての側面があった、と総括している(大畑によれば、白仁燁は旧日本軍で伍長を務めた)。〕 仁川広域市には韓国の16市道(第一級行政区画)の中で唯一、(複数の学部を持つ)国立大学がなかったため〔国立の京仁教育大学校は存在する。蔚山広域市にも国立大学校がなかったが、同じく2004年10月に国立大学設立推進委員会が結成され、2007年に設立法制定、2009年に蔚山科学技術大学校開校という形で結実している。参照:蔚山科学技術大学校沿革 (朝鮮語)、2012年1月28日閲覧。〕、2004年から仁川大の国立大学化・法人化に向けた動きが始まり〔仁川大「国立大法人化」事実上確定 (朝鮮語)、ハンギョレ 2011年12月28日付記事。2012年1月19日閲覧。〕、2006年には市と大学との間で「国立大法人転換に関する了解覚書」が締結された〔仁川、「国立大なき悲しみ」吹き飛ばす (朝鮮語)、仁川大ニュース:インサイド仁川、2012年1月5日付記事(同日付 東亜日報記事の転載)。2012年1月19日閲覧。〕。その後も国立大化を視野に、松島新都市への学舎の新築移転(2009年)、仁川専門大学統合(2010年)による拡充が実施された。2011年12月30日、「国立大学法人 仁川大学校 設立・運営に関する法律案」が韓国国会本会議を通過し〔仁川大が国立大学校となる法、国会本会議通過 (朝鮮語)、仁川大ニュース:インサイド仁川、2012年1月3日付記事。2012年1月19日閲覧。〕、2013年1月18日、国立大学法人 仁川大学校に転換した。〔
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁川大学校」の詳細全文を読む
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