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仁木 友梅(にっき ゆうばい、生没年不詳)は、戦国時代の武将、伊賀国の守護大名。通称、右京大夫。別名、義視、有梅。 同時期に伊賀に在国した仁木長政と同一人物の可能性もあるが、資料が乏しく、伊賀仁木氏との関係は不明。名前に義の字を用いていることから、仁木義長の本筋で仁木義広、仁木義持、仁木義政との関連が推測される。 == 略歴 == 元亀2年(1571年)、伊賀の国人たちによって江州から招かれ、伊賀へ入国した。しばらく三田に滞在した後、上野の平楽寺へ城を構え、伊賀国主として振る舞ったが、国人たちには侮蔑の対象とされており、次第に亀裂が生じていった。更には百田藤兵衛と仏像をめぐり対立し、天正5年(1577年)に信楽の地へ追放された。 天正伊賀の乱の後、織田家臣として平楽寺城主に返り咲いたが、本能寺の変後起きた一揆に攻められ再び没落し、守護としての仁木氏は滅亡した。 その後は興福寺に隠遁したようで、多聞院日記に名が見える。 日記によると美女とされた娘がおり、新たに伊賀守護に任命された筒井定次の側室となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁木友梅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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