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仁木 民部少輔(にき みんぶのしょう、実名不詳、生没年不詳)は、戦国時代の武将。政長の子か。兄に伊賀守護の仁木刑部大輔。伊賀仁木氏。通称、民部少輔、七郎。御供衆。 == 概略 == 伊賀守護である政長の息子と推測されている。『後法成寺関白記』に現れてくる仁木七郎と同日人物と見られており、享禄元年(1528年)から享禄4年(1531年)の間に民部少輔を名乗る。 大永4年(1524年)に狭川氏攻略を目指し、古市氏らと共に山城国相楽郡の笠置寺へ打入るも、狭川氏自身の采配によって散々に破られている。 天文10年(1541年)に相伴衆となり、天文14年(1545年)には御供衆として将軍に供奉している。以降の消息は知れない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「仁木民部少輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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